映画『福田村事件』



1923年9月1日,関東大震災が首都・東京を襲った。その直後から「朝鮮人が井戸に毒薬を投げた」といったデマが広がって朝鮮人虐殺が相次いだ。千葉県福田村(現・野田市)では,自警団の村人たちが,村に商いにやってきていた香川県の被差別部落出身の行商団を朝鮮人と思い込んで9人を虐殺した。

映画『福田村事件』(森達也監督,2023年)は,近代日本の二つの差別,部落差別と朝鮮人差別を扱うが,流浪のハンセン病患者も出てきて,差別の重層性,階層性が描かれる。さらには社会主義者の虐殺も挿入される。


大地震が起こるまでは,村は表面上平和だった。ただ,兵隊に取られて夫がいない家では,若い嫁が間男をつくったり,舅と関係をもって子どもを産むなどして,あっちの家,こっちの家で,嫁の不貞をめぐって家族の疑惑が膨らんで大小の爆発を起こしていた。

これらの家で起こっていた爆発は,決して家庭内の個別の争い事ではない。夫たちは,朝鮮や大陸,戦争に駆り出されていたのであり,次に村で起こる朝鮮人差別に端を発する虐殺事件の火種のような意味合いをもっている。

大地震発生の翌9月2日,東京府,千葉県に戒厳令が敷かれ,村の自警団を組織しその先頭に立つ在郷軍人会分会長・長谷川(水道橋博士)が,朝鮮人の暴動から村を守ると途方もない理屈をつけ,竹槍をつくって村を防衛するよう村人を扇動した。これに対し,リベラルの側には,朝鮮から思い破れて帰ってきた元教師の澤田(井浦新)と村長・田向(豊原功補)がいるが,彼らには,長谷川の暴走を押し留めるだけの力づよい知性の言葉がない。利根川の船頭・倉蔵(東出昌大)は,長谷川に「戦争に意味あんか」と正面から物申す男だが,大正デモクラシーとは無縁の男だ。

行商団虐殺が始まろうとする最後の場面。竹槍をもって構えた自警団が,行商団を取り囲んでお前らは朝鮮人ではないかと問答をしている。その時,突如,村の若い嫁トミが自警団の群衆の中から飛び出てきて,行商団の親方・新助(永山瑛太)に一撃を喰らわし殺害した。これを機に自警団の村人が,新助の妻,子どもへと手をかけていく。恐ろしい殺戮が展開される。

9人虐殺の火蓋を切ったトミは,夫が東京本所に出稼ぎしており,家を守る嫁だ。トミは,本所は地震火災で全部燃えてしまった,ということを耳にしていた。新助を朝鮮人とみなして野蛮な虐殺に走ったのだが,それは帰ってこない夫に代わる朝鮮人への復讐だったのだろうか。トミの短絡的な行動が今ひとつ,理解できない。哀れなことに,この虐殺の現場で放心状態になっているトミの前に,東京本所から戻った夫が「何かあったんか」と言いながら,姿を表すのである。


朝鮮人差別,部落差別は,戦後もずっとつづいている。学校は避けて決して教えなかった。私は,戦前戦中に生まれて生きた身内の大人たちから教えられた。

奈良盆地の農村に住んでいた伯父は,小学生の私に「おばちゃん(自分の妻)は朝鮮人や。いや,嘘や嘘や」と笑いながら「朝鮮人」を語った。私は,まだ外国人を誰も知らなかったが,「朝鮮人」とは蔑む人たちのことだと知った。差別の存在を初めて知った時だった。中学生になったとき,母は,部落の人間が差別されるのは差別されるだけの理由があるんやと言い,私に,指を立てる仕草と言葉で,屠殺を仕事にしていた人たちへのあからさまな偏見と差別を示した。

母のそれはあまりにあからさま過ぎて,子どもながら,母が育った農村社会の閉鎖的で陰湿な関係を思った。差別は,外では語られず,学校でも教えられないまま,内輪で密かに,しかしあからさまな偏見と先入観をもって子どもに伝えられていたのである。福田村事件から半世紀後の私の経験である。

社会に出て就職した大阪の会社には,ドイツ人,在日の韓国人,朝鮮人,中国人,インドネシア人がいて,外の社会以上に多様性のある集団だった。社内に民族差別はなかったが,ある在日の人は,「自分は結婚できないんです」と私に語った。その時,私は理由が分からなかった。ある一人は社内の日本人と結婚を約束したが地下鉄に飛び込んだ。外の社会には,人を死に追い込む深い韓国・朝鮮人差別があった。1980年前後のことである。

そして,現在,もはやかつてのように密かに語られるなどなく,直接的に人を傷つける陰湿でどぎつい言葉が溢れかえっている。

映画『福田村事件』を,茨城で,そして事件現場に近い千葉・柏で,2度観た。私の中にも差別意識はこびりついている。自分の中で差別意識がつくられた過程を振り返り,福田村事件が現在に語るものを考えている。

0コメント

  • 1000 / 1000