「自分ごと化会議 in 松江」の成果
東海村は,今年2020年,「自分ごと化会議」を開始する。この聞き慣れない会議の位置づけは,松江で行われた「自分ごと化会議in松江」の成果に学び,住民の意向把握に向けて住民が自分の問題として関心を高めていくための調査研究の一環とされている(図)。東海村山田村長の意図はどこにあるのか,松江の住民による自分ごと化会議の成果はなにかを考えた。
図 講演会のフライヤー(2020年9月19日、東海文化センター)
「自分ごと化会議」とはどんな会議か。会議を運営するシンクタンク構想日本の総括ディレクター,伊藤 伸氏は次のように書く。
「これからのまちづくりの基本的な考え方は,いかに小さくして『質』を高めるか,住民がいかに町のことを『自分ごと化』できるかがポイント。多様な住民がしっかりと考え議論すれば,自ずと良い結論が導き出せる」「意識の高い人,利害関係者,専門性の高い人,地域の有力者が集まる公募式や推薦・一本釣り方式ではなく,無作為抽出方式で,行政と接点の少なかった人,参加を躊躇していた人など,広範な市民の参加を望める」(講演会「"原発問題”を自分のこととして考えるとは?」の配布資料,9月19日,東海文化センター)。
会議の目的は,ゴミ問題,防災など自治体がかかえる地域課題を住民に自分ごととして考えてもらうことだ。住民同士の議論が深まれば課題解決の糸口を見つけ出せるもしれない。住民の行政への関心が高まれば,住民による自主的な地域活動や地域運営へと発展することも期待できる。
そのような思惑もあってか,シンクタンク構想日本がコーディネートした自分ごと化会議は,全国71自治体,144回の実績があるという。その中で,松江市の自分ごと化会議は,原発問題をテーマにした例で,しかも住民団体が会議を運営した数少ない例の一つである。
東海村山田村長は,19日の講演会で,無作為抽出法は「声の大きい人」が集まることを避けられると,この会議のシステムの長所を強調した。松江の提言書でもあえて「普通の市民」が集まった会議であると説明している。
山田村長が言う「声の大きい人」とは,東海第二原発再稼働反対の住民である。税金を投入し,反対住民が参加するのを避けて「普通の市民」でつくる住民会議がどんな方向に向かうか。村長の意図をここに読み取ることができる。
思えば,2019年,いばらき原発県民投票の会によって,全県的な県民投票の署名活動への準備がすすめられ,2020年1月、署名は開始された。山田村長は,この動きを横目で見ながら,これに対抗する東海村の住民の意思把握の方法を模索していたのだろう。
今年6月,県民投票条例案が県議会に上程されたとき,山田村長は参考人として議会に招致されたが,県民投票については意見を一切言わなかった。県民投票に替わる住民意見の把握法として,この自分ごと化会議を紹介したのである。
しかし,松江市と東海村の会議には大きな違いがある。松江市は住民の自主運営だが,東海村は行政がお金を出して運営する。この運営の違いは,議論の過程を左右し,成果物の方向性を決定づけるだろう(コーディネーター伊藤氏は,行政は口を出さないと言っていたが)。
導入理由はどうだろう。松江市の会議の立ち上げ動機ははっきりしないが,東海村は,「東海第二原発再稼働問題に関して,住民の意向把握を課題としている。住民が自分の問題として関心を高めていくための調査研究の一環」とされる。最終目的が住民の意向把握なら,自分ごと化会議とは目的がまったく違うので,導入の理由がないということになる。山田村長は「調査研究の一環」と書いているから,会議の成果をもとにして幅広い住民意見を拾い上げる方法論へと展開するということだろうか。
「自分ごと化会議 in 松江からの9つの提言書」(2019年3月)を見てみよう *。なお,各提言文最後の太字のかっこ書きは,筆者が提言趣旨として書き込んだ。
1. 原発を「誰かが考える問題」ではなく「自分の問題」として,多くの人が関心を持つようにする。(原発問題の自分ごと化)
2. 自分たち(子や孫も含めて)どう暮らしたいのか,松江氏はどんなまちであってほしいか」に思いを巡らして原発のあり方を考える。(原発のあり方)
3. 島根原発の見学など,市民がわかりやすい原発の情報に触れる機会を増やし,一人一人が判断しやすい環境をつくる。(原発問題の学習機会)
4. 原発によって松江市にどの程度の経済効果があるのか,具体的に検証して市民目線で考える。(原発の経済効果)
5. 自分たちの生活の中で,エネルギーの使い方を見つめ直し,無駄をなくす。(エネルギー消費生活の見直し)
6. エネルギー源の一層の多様化や,地域循環型の電力システム(エネルギーの地産地消)に向けて研究し,その成果を市民へ知らせる。(エネルギー研究成果の提供)
7. 放射性廃棄物の最終処分場について,情報の出し手(国や電力会社)と受け手(市民)のコミュニケーションを図り,他人事にならないようにする。(最終処分場問題の自分ごと化)
8. 仮に原発事故が起きた場合の被害シミュレーションや,避難計画・経路の周知を今まで以上に徹底する。私たち市民も知る努力をする。(避難計画の自分ごと化)
9. この会議での私たちの意見と,議会・行政の考えと共通点や相違点を知るため,市議会を傍聴したり国のエネルギー政策の動向をチェックしたりする。議会・行政は多様な市民の意見を真剣に聴く。(市民の議会と政策チェック,市民意見に対する議会・行政への真剣な対応)
9つの提言ひとつひとつに,「私たち市民」「中国電力」「民間企業・NPO等」「行政」への提言が箇条書きで整理されている。ただ,学びと思索に対する時間の制約が大きかったと思われ,提言には何ら新しいものはない。
原発問題が主題だが,差し迫っている原発の再稼働を認めるのか認めないかという喫緊の問題には立ち入らない。それが原則だから,原発の安全性という中核的な問題には一切立ち入らない。
8番目の避難計画に関する提言をみてみよう。会議では,福島第一原発事故の長期性,広域性,過酷性,そして復興の困難さ,被災者の置かれている状況について語っただろうか。そして,島根原発の安全性について議論されたのだろうか。提言は,「仮に原発事故が起きた場合」として,まるで原発事故は架空のことのような捉え方である。中国電力にとっては本当にありがたい存在だろう。この後つづく文章が,行政には「被害シミュレーションや,避難計画・経路の周知を今まで以上に徹底する」と,計画の周知徹底を軽くお願いするだけである。市民に対しては「知る努力をする」だけである。気が抜ける。要するに,完全に他人ごとなである。
「自分ごと化会議 in 松江」の提言書は,なぜ他人ごとなのか。
第一に,そもそも会議の前提が原発再稼働の是非には立ち入らないとすること自体,重大な地域課題に住民としてどう考え,どう立ち向かうのかという真摯な姿勢が抜けているという問題がある。第二に,たとえ立ち入ることを前提とした会議であっても,計4回,2018年11月から2019年2月のわずか4ヶ月足らずである。収集できる情報は絶対的に不足しているはずだし,それら集めた情報をもって問題を理解し議論する時間も絶対的に不足している。会議として論理を尽くして一定の方向性ある結論を導くことはやはり難しいことだっただろう。
結局,松江の会議は,原発問題の自分ごと化を詰めることは不十分だったし,行政,中国電力に対して迫るべき確固たるものも提言できなかった,というのが私の感想である。東海村の自分ごと化会議で,住民意見の把握につながる実りある成果が得られるだろうか。
* 自分ごと化会議 in 松江実行委員会,自分ごと化会議 in 松江からの9つの提言書,2019年3月15日
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