半世紀の間,水戸で事務所として利用されてきた東京の高校教員宿舎


今年7月,水戸市内の日本共産党茨城県委員会事務所を見学させてもらう機会があった。木造2階建ての看板建築,下見板張り,切妻瓦葺きである。

東京で私立高校の教員宿舎として使われていた建物を,水戸に移築したものだという。土地の購入記録は昭和39年とある。東京オリンピックのころ,水戸に移築し,ファサードを目立たせるようにと「看板」をつけたようだ。当時の県委員長が「洋風建築にした」と話していたと聞いた。「洋風建築にした」とは,要するに看板建築にしたということだ。

8月,事務所は,同じ市内の鉄筋コンクリート造のビルに移り,元教員宿舎の事務所は解体された。私は,解体直前の建物を見せてもらえる幸運に恵まれたわけである。

1階は,宿舎の平面の基本をそのまま引き継いでいる。中廊下型で,南側に小さく間仕切りされた居室が並んでいる。中廊下を挟んで北側に階段,押入,台所,トイレが配置されている。風呂もあった。なぜか,玄関が,中廊下東の端と,建物中央南に面したところの2箇所ある。水戸では,敷地の関係で,建物は西向きに立っていた。

写真1 引越し作業中の1階居室,ちょっと懐かしい木製サッシと模様入りガラス


写真2 東端の玄関を背にして中廊下に立つ。左側に居室が並び,右側に階段,押入,台所,トイレが並ぶ。突き当たりに勝手口。

(しんぶん赤旗,高橋誠一郎記者提供)


細かい間仕切りのままでは事務所として不便なので,2階は,柱,壁を大胆に取って,広い事務室をつくっていた。この部屋は当初,畳敷だった。人数が集まる会議は,机を並べ畳に座って行ったという。その後,床をフローリングにし,壁は,真壁の上に板を貼り付けて大壁に変更していた。

2階平面は事務所向きに大胆に変更されたが,構造上変更できない廊下幅や階段幅は,狭い半間(はんけん)のままだし,トイレは1つしかない。当初は,大便器,小便器がそれぞれ1つづつだった。宿舎時代も一つだったのだろうか。とても不便だっただろう。

この建物内に入って安らぎを感じるのは,やはり自然素材の内装の故である。現代の住宅で多用される新建材は,この建物では,後の修理や改善で使われている以外にはない。写真2の廊下の床材は,たいそう摩耗しているが,素朴な無垢材である。唯一,柱,壁を取り払った2階の事務室は,大胆に合板が張られていて(こんなことを言ったらなんだが),もっともがっかりな部屋だった。

今のところ,建物に関する資料は,平面と立面図を収めた青焼き1枚しかない。何人かにインタビューができた。建設に先立ち,大学生など若い人たちが,地盤の盛り土をし,基礎のコンクリ打ちを手伝ったという話も聞けた。色々なことが少しずつわかってきたが,上にあげた私の疑問はまだ全然解明できていない。

私の一番の関心は,やはり,この建物の東京時代の宿舎にある。いつ頃建てられたのか,どこに建っていたのか,建物の持ち主(経営者)は誰か,宿舎としての平面計画や入居者の利用状況,この建物が水戸に移築された経緯,事務所に転用する際の平面計画の変更部分の確認,事務所利用のされ方や工夫点,修理改修の実績などを把握したいと思っている。


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