旧産炭地域の失敗


この夏,石炭産業が都市をつくり地域を潤した旧産炭地域を巡った。ひとつは北海道空知地方の夕張市と周辺の町。もうひとつは常磐炭田の茨城県側の高萩市。跡地に保存されている炭鉱施設を見学して話を伺い,資料を集めた(写真1)

1900年に第三斜坑として開坑された。炭鉄港HPより引用

写真1 北炭夕張天龍坑


石炭が,市民の日常生活からすっかり姿を消してもう半世紀になる。石炭は遠い記憶になってしまった。石炭といえばちょっとセンチになる思い出が二つある。

ひとつは,中学生の時,亡き母に連れられ,生まれて初めて乗った蒸気機関車。大阪から熱海に向かった。行き先はある新興宗教教団の本部。トンネルに入ると,つぶつぶの煤煙が車内に勢いよく入ってきてチクチク目を刺した。急いで窓を閉めたのを思い出す。

もうひとつは,私の石炭の最後の記憶。大学生になった時,大阪大学教養イ号館の教室を温めていた石炭ストーブ。先生が来るまで知らない学生同士,ストーブを囲んでいた。その時,真向かいに立っていた男子学生が突然,私にノートを貸してほしいと声をかけてきた。それがきっかけで付き合いを始めた。1970年代のことである。

以来,石炭を見ることはなくなった。今年8月,空知地方の三笠市立博物館で炭鉱施設を見学した時,石炭の原料メタセコイアの実と石炭をお土産にいただいた(写真2)。石炭はツヤツヤしている。ニスを塗ってあるそうだ。塗装しないとボロボロになるという。

写真2 メタセコイアの実と石炭


旧産炭地域を巡ったのは,石炭から石油への「エネルギー革命」が進行していた1960年代以降,産炭地域が,地域再生を目指してどんな産炭事業を起こしたのか,それはどう成功し,あるいはどう失敗したのかを現地で見て学ぶためだった。

夕張市は,石炭産業の衰退が明らかすぎるほど明らかになっていた1970年代に入っても,石炭企業を核にした事業を起こそうとしていた *。

それに関連して思い出すのが,映画「フラガール」(監督:李相日,2006年)である。常磐炭礦(福島県いわき市)の人々が石炭から観光への転換に取り組んだ経緯と成功を描いた映画である。この映画で,炭鉱の娘の一人が一家で夕張へ引っ越していくシーンがある。私は,「行ったらダメ!」と心の中で叫んだが,所詮,映画の中の出来事。夕張市の各種データや研究論文を読めば,その後,一家はどんな苦労をしたか容易に想像がつく。

いま,化石燃料から再生可能エネルギーへのエネルギー転換が急速に進行している。政府は,原発はクリーンエネルギーとして,再生可能エネルギーと同列に置き,これを維持させようとしている。

しかし,原発はもう衰退産業ではないのか。電力会社の中核・東京電力は,福島で過酷事故を起こして実質国営企業となり,被害者,被災者への賠償金は国が肩代わりしている。2009年以来14年の間,原発の新設はなく,原発部品のサプライチェーン途絶リスクが高まっている。原発輸出の撤退もつづいている。2022年現在で原発の電源構成比は5%だが,政府は,2030年には20〜22%程度にまで引き上げると計画しているが,実現の目処は全くない。税金を投入してしか維持できない原発産業は,畑村が言う技術発展段階論の<破滅期>に入っている,とみるのが正しいのではないのか **。

原発立地地域は,将来を正しく見る努力を怠っていないか。夕張市は派手な観光事業に失敗して破産し,高萩市も観光を目指したが見事に失敗した。



* 島西智輝,青木隆夫「夕張市の産炭地域振興事業をめぐる利害調整」,杉山伸也,牛島利明編著『日本石炭産業の衰退:戦後北海道における企業と地域』,慶應義塾大学出版会,2012

** 畑村洋太郎『失敗学のすすめ』,講談社文庫,2005年

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