茨城の震災復興10年 

2021年冬,東日本大震災から10年を迎えた。前年の秋口から現れ出した感染の第三波が,1月に入って急上昇の線を描き,東京をはじめ11 都府県に緊急事態宣言が布かれた。筆者がこれを書いている2月下旬はまだ10都府県が宣言下にある。筆者は,震災と原発事故以来,住宅被害とその後の再建進捗,都道府県境を超えて全国に避難した避難者が抱える問題を捉えようと,県内と全国を対象にしたいくつもの調査を実施してきた。茨城で起こったこと,わかったことを振り返り,茨城から震災復興の課題を考えたい。


茨城の住宅被害

茨城県の住宅は,太平洋沿岸部とその後背地域を中心に,県内各地で被害が多発した。その数は全壊2,620棟,半壊24,168棟,床上浸水1,799棟にのぼった(図1,2,3,4,5)


 図1 屋根に津波の痕跡が残る住宅(北茨城市,2011年7月撮影)

図2 水戸東照宮の擁壁崩壊(水戸市,2011年6月撮影)

図3 液状化で地盤が割れ住宅が傾斜(神栖市,住宅所有者より提供,2011年3月撮影)

図4 思い屋根を支えつつ構造強化の工事中の農家(常陸太田市,2011年6月)

図5 伝統的建造物群保存地区・真壁で屋根と壁に被害(桜川市,2011年5月撮影)

2012年2月,住宅被害が集中した5市7地区で住宅被害調査を実施した。その結果,全壊住宅の69.0%は60歳以上,96.6%が持ち家だった。大きな住宅被害を受けたのは高齢者世帯で,その住宅はほぼ持ち家だった。7被災地の特徴は,1地区を除いて,いずれも古い市街地で震災前から人口が減少,高齢化が進行しており,震災後の人口減少はさらに加速した。


進まなかった住宅再建

2014年2月,同じ7地区で,住宅再建の進捗状況を調査した。わかったことは,81.1%の世帯が震災前からの住宅で生活しており,住宅を再建,補修したくてもできない理由の第一は,「経済的理由を考え我慢」だった(図6)。以下,「公的支援がない」「ローンが組めない」が続いた(複数回答)。


図6 被災住宅を再建・補修できない主な理由


2019年2月,住宅被災者のその後を追った。北茨城市で,一人で暮らす女性(当時74)の例である。住宅は鉄骨3階建て,床上浸水,地震で傾斜し半壊と認定された。床の張り替えなどで最初の補修は,最低限に抑えて約470万円。被災者生活再建支援法では半壊住宅は支援金支給の対象外となるため,老後の蓄えを崩して工面した。

震災から5年後,玄関枠が歪んで玄関の鍵が締まらなくなり,追加工事をした。さらに,2018年9月,粘着テープで応急処置していた浴室のドアを取り替えた。

調査時の住宅は,壁に入った亀裂から冷気が入り込み,天井には雨漏りの染みが広がっていた。女性は,「もっと支援がほしいが,我慢するしかない。生きてもあと10年かそこらだから」と語った。

この被災者宅における問題は,被害が比較的軽微だとされた住宅被災者に対する経済的支援がないこと,当初の調査では確認できなかった住宅の傷みが時をへてあちこちで出現し,修理の出費が続いているということである。この被災者は,長年にわたって安全衛生,快適の住生活から遠ざけられており,公的な支援が届いていない。


しぼむ地域の被災者支援

現在の住宅再建支援は,当初の被災判定にもとづく経済的支援で,その後建物に起こる不具合への支援はなく,被災者の心のケア,高齢者の居場所づくりなどもない。

この公的支援の隙間を埋めて,被災者に寄り添った支援を行なってきたのがNPOなどの民間団体である。共同通信が,全国の68の支援団体に対して,2021年4月以降の活動方針を調査した。その結果は,4割が活動を縮小,終了するだった(図7)。縮小,終了の主な理由は,「世間の関心が新しい災害に向かっている」「一緒に動いてきた企業の活動が縮小されている」「ある程度の役割を果たした」「新型コロナウィルスの影響で資金調達が難しい」である。

図7 3.11被災者支援団体の2021年度以降の活動方針


2021年3月,東日本大震災の被災地を手厚く支援する「復興・創生期間」が終了し,国の支援が縮小する。地域コミュニティ再生や高齢者の居住支援が今後もさらに継続的に必要な時に,市民や企業の関心の低下と資金難という環境のもと,さらに公的支援が縮小されようとしている。


応急仮設住宅わずか県内10戸

話は被災直後に戻るが,住宅を失った被災者に対して提供される応急仮設住宅は,茨城県では,北茨城市に2箇所,計10戸のみだった。北茨城市の被害が全壊188,床上浸水567であるのと照らし合わせても著しく少なかった。

図8は,旧大津小学校跡地に建設された5戸の仮設住宅である。2011年春,訪問した時は,雨が降っていてアクセス路や建物周りがぬかるんで歩きにくかったが,2012年5月,訪問した時には砂利が敷かれていた。しかし,プレハブ住宅の夏冬の過酷な室内温熱環境に対応するためのエアコンの設置はなかった。

福島県では地元工務店による木造仮設住宅が供給され,岩手県では高齢者,子育て層など震災後ケアが必要とされる世帯を中心に,被災者が安心で快適に生活できる物的・医療福祉的・社会的環境の形成をはかったコミュニティケア型仮設住宅団地など,意欲的な仮設住宅団地がつくられたのとは,あまりにも対照的だった。

図8 小学校跡地の応急仮設住宅5戸(北茨城市,2012年5月撮影)


北茨城市ではその後,市内3箇所に災害公営住宅が建設された(図9)。供給戸数は計110戸である。


図9 災害公営住宅(北茨城市,2014年12月撮影)


仮設住宅の供給量はなぜこんなに抑えられたのか。そこには,茨城県の既存ストックを活用するという方針があった。この方針決定の背景の一つには,限られた復興財源・資材・人材は被害の巨大な東北3県へ集中投入されるだろうから,大きな供給計画の実現はむずかしいとの判断があった。

つまり,被災者の住宅再建の方針は,被害実態と被災者のニーズにもとづいたものではなく,東北の激甚被災地に対する周縁被災地としての自覚によるものだった。茨城県の震災直後の住宅被災者支援は,東北3県の復興優先への配慮から大幅に縮小されていた。


被ばくを逃れて県外避難

原発事故が茨城県にもたらした放射能の影響について検討したい。福島第一原発から150km離れた水戸市の事故直後の空間線量は最大毎時1.7ミリシーベルトとなり,その後しばらく0.2ミリシーベルトで推移した。県南部の守谷市では2011年5月,0.4マイクロシーベルトなど高線量のホットスポットが出現したが,避難指示が出されることはなかった。リスクを察知した子どもをもつ親たちの中から被ばくを回避するため県外避難を選択する人たちが続出した。

筆者は,茨城県の県外避難者がどのぐらいにのぼるのか,とにかくも概数を出して地元自治体に提示したい,また,県外避難者は避難先でどんな困難に遭遇しているかも把握する必要があると考え,2012年11月,全国の自治体1,500と各地の避難者支援団体などへ往復はがきやメールを出して,茨城県からの避難者の存否を照会し,北海道から九州まで86人が手をあげ調査に協力してくれた。

調査でわかったことは,県外避難の理由は被ばく回避が6割で,その8割が母子避難だった。残る理由は住宅被害のための避難が3割だった。

福島県からの県外避難者を把握するため不十分ながらも国のシステムがつくられ,それなりの数字をつかむことができているが,避難指示が出なかった茨城県では,そのシステム運用は適用されず結局,実数は不明のままとなった。筆者は,自身の調査結果から一時期,県外避難者は2万人にのぼったと推定した。

被ばく回避のための避難者は,避難指示がなかったので自主避難者と言われている。自主避難者へは,避難先の自治体が住宅支援を実施するなどの例も少なからずあったが,制度的保障もなく,その後,少なからぬ人たちは戻ってきたのではないかと思われるが,その一方で,子どもを被ばくから守るため茨城には戻らないと回答した人も多く,筆者は,北海道,佐賀,海外などへ移住を決めた人たちを確認した。

このように,茨城県から県外へ避難,さらには移住を選択する人が少なからずいた一方で,福島県から茨城県へ避難してきた人も多かった。2021年1月,その数は2,925人である。これは東京都に次いで多い。茨城県に福島県からの避難者が多いのは,子ども世帯が茨城にいる,福島に近く家の様子を見に行くのに便利など,縁故関係と隣接県という馴染みのよさ,JR常磐線や常磐高速道によるアクセスの良さが大きい。

2018年11月,原口弥生氏(茨城大学)が,福島県などの被災地から茨城県に避難している人を対象にして実施した調査によれば(回答185世帯),「県内での定住を決め,住居を確保」35.7%ともっとも多く,「県内に定住する予定」27%,これらを合わせると,避難先・茨城での定住は62.7%になる。他方,帰還すると答えた人はわずか1.6%にとどまった(茨城県における県外避難者のほとんどは福島からの避難者)。78・9%は住民票を移していなかった。避難先の茨城での定住が進行している。


周縁被災地・茨城から震災復興を考える

冒頭,茨城県内の住宅被害状況を示した。住民の生活と地域コミュニティを破壊する大きな被害は太平洋沿岸部に集中したが,被害はまばらだが,内陸の農村や伝統的建造物保存地区にももたらされた。 これら茨城の被害にも増して被害が巨大だったのが東北3県で,東北3県の復興のためにあらゆるものが集中して投入された。

茨城県の被災地は,どこも高齢者が住む持ち家住宅が多い農村や漁村,古い市街地だったが,住宅再建をあきらめて地域外や県外の子世帯を頼るなどして,人口が急激に流出した。コミュニティが機能しなくなった地域では,取り残された被災者に支援やケアが届かず,とくに高齢者は元の生活を取り戻せず10年がすぎた。

巨大な地震は,被害の中心部と周辺の被災地,さらにその外側の周縁部に被害が小さい地域,被害のまばらな地域を広大につくり出す。茨城県の被害は大小あったが,それでも東北3県に対するいわば周縁被災地だった。

被災地としての茨城県について,「低認知被災地域」「忘れられた被災地」と表現されることがある。被災地だが,被災地として十分に認識されなかった,という捉え方のようだが,認識の問題として茨城を捉えようとしても,意味あることはなにも出てこない。

筆者は,巨大災害における「周縁被災地」と捉え,周縁被災地ではどんなことが起こるか,何が問題か,次の巨大地震に備えて問題を立てるヒントになるのではないかと考えている。

先に,仮設住宅はわずか10戸だったが,その後110戸の災害公営住宅が建設された,北茨城市での住宅被災者支援のちぐはぐさを示したが,津波で家を流された多数の被災者に自力避難を求める被災者には,応急仮設住宅の供給抑制は過酷な方針だった。

この政策のまちがいが,地域にどんなことをもたらしたのかは,いまとなってはわからないが,茨城の経験から,周縁被災地では被災者支援の理念と方策が歪められる,住民の生活再建支援,コミュニティ支援からもっとも遠いところにおかれる,ということにある。

次にくる大きな震災でも周縁被災地は広大に出現する。これらの地域への適切な政策立案が必要である。また,激甚被災地の隣の友人として,命と健康を守るために自分たちのところに逃げてきた避難者にどんな支援を差し伸べることができるかについても市民として考えていかなければならない。



参考文献

乾 康代,山崎古都子,田中宏子(2013)「東日本大震災と原発事故による茨城県の避難者の帰郷意思と支援課題」『都市住宅学』83

乾 康代(2015)「被災者の住宅再建の進捗状況と再建支援課題 ―東日本大震災3年後の茨城県を対象に―」『日本建築学会計画系論文集』80巻714号

乾 康代(2016)「避難者受け入れ自治体と被災自治体による県外避難者支援 ―東日本大震災の茨城県を対象に全国の市区町村調査から―」『日本建築学会計画系論文集』81巻726号


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