廃炉時代の東海村を考える


小さい村だが日本最大の原子力産業都市

茨城県には44市町村あり,村は二つ,東海村はその一つである。小さな村だが人口は3.7万人,日本原子力研究開発機構(JAEA),日本原子力発電(原電)の原発をはじめ,12の原子力関係事業所が集まる日本最大の原子力産業都市である。

村が原子力産業都市になったきっかけは,1950年代半ば,アメリカが,一旦はフィリピン・マニラにその建設の狙いを定めた「アジア原子力センター」である。日本は,その誘致に失敗すると,1956年,日本版原子力センターの建設地を東海村に決めた。村には太平洋に面する広大な国有県有の土地があり,東京から近くアクセスもよいという,立地とアクセスの優位性によって選ばれた。茨城県はこの決定に喜び,東海村とともにその建設に全面的に協力していった。こうして,東海村は原子力関係事業所が集中立地する,文字通りの原子力センターになった。

本論は,まず,東海村が,原発産業都市になるにいたった経緯を都市計画の視点から読み解き,地域空間の問題をあぶり出す。続いて,原発立地地域としての問題とまちづくりの課題を示す。


原子力センター建設を主導した日本原子力産業会議

東海村の最初の原子力施設・日本原子力研究所(当時,原研,現JAEA)の設置が決定されてから半世紀たった2004年ごろ,筆者が初めて東海村を訪問し目にしたのは,原発サイトに住宅地が迫りそこに多くの生活が営まれているという状況だった。住宅地が原発サイトを囲むような開発がなぜ可能になったのかを知りたいと,東海村における原子力開発の歴史を調べ始めた。

わかったことを一言でいえば,原子力センター建設のために都市計画が歪められたということ,計画を歪めたのは茨城県と日本原子力産業会議(原産)であるということである。

その核心部分を記録する重要な文書が,柴田秀俊資料のひとつ,「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」(設立趣意書)である(図1)*。


図1 東海原子力都市開発株式会社設立趣意書(表紙)


東海原子力都市開発とは,東海村における原子力センターを建設するために,原産が設立した会社である。この会社の事業は二つ,東海村への進出企業のための不動産斡旋と,進出企業の供用施設(ガス供給設備,購買施設など)を建設することであった。1959年,東海原発の設置が許可され,これに合わせて企業が進出してくると土地の斡旋事業は完了した **。その後,会社は解散したようで,この企業実態は不明のままである。


歪められた都市計画

この設立趣意書には,原産が,東海村の都市計画策定に参加したことが,あけすけに書かれている。

「風光明媚な自然環境と大部分の住民が純農家であるこの地はいわば汚れを知らぬ白紙のままの処女地であり,近代科学の粋を集めた原子力センターの所在地にふさわしい。学問と文化の理想的模範都市を設営するには蓋し絶好の立地條件にあると言えよう。従って,官民一致して,豫め周到な都市計画を用意し,強力にその具体化を図る事が必要であろう。

当該事業者側が官民一致して,すなわち茨城県と一致して東海村の都市計画を用意した,今後,都市計画に沿って開発が強力に進められることが必要だというのである。これを書いたのは,東海原子力都市開発の設立母体,原産である。

東海村の都市計画が策定されたのは1956年7月,この文章が書かれたのはその翌年1957年3月ごろである。文章は推量形で結ばれているが,時系列からして「豫め周到な都市計画を用意し」た後,この文書を書いたのである。つまり,原産は,茨城県とともに東海村の都市計画を策定した。「官民一致」で「用意周到」に。

日本の都市計画には,当該事業者が都市計画の策定に参加できる制度は過去も現在もない。しかし,東海村の計画では当該事業者側が策定に参加した。茨城県は,都市計画法の趣旨を無視して原産を受け入れたのだろう。その結果が,明らかに進出企業に便宜を図った計画だった。


図2 東海村の用途地域図(筆者が文字加筆)

臨海部に広大な原研と原発サイト(都市計画の白地),工業地域が鉄道沿線に2箇所,北西端の国道沿いに広大な1箇所が配置されている。


図2がその用途地域図である。原研と原発サイトは当初,なぜか工業地域に指定されなかったが,ここを含めると4箇所の工業地域を村内に分散配置させるという計画である。住居地域はその中に囲まれるように配置された。この分散配置関係は現在にいたるまで引き継がれている。 この工業地域の分散配置の不合理さに加えて,原発サイト周辺の開発規制も曖昧だった。当初,原発サイトを取り囲むグリーンベルトを念頭において設置された14の公園や緑地は,いつの間にかほとんどなくなり,原子力施設や工業団地,住宅団地に変わってしまった。


東海第二原発再稼働がもたらす問題の大きさ

東海村の原発は2基,東海原発と東海第二原発である。東海原発は,1996年,運転を停止し現在,廃炉中である。東海第二原発は,運転開始から40年たった2018年,20年の運転延長が認められた。事業者・原電はいま,3,500億円の巨額を投じて,再稼働に向けた大規模な工事を進めている。これに対して,地元茨城県の各地,原電本店がある東京と首都圏各地で,市民と市民団体が再稼働反対の声をあげている。

東海第二原発の再稼働は何が問題か。東海第二原発の再稼働はなぜ茨城の問題にとどまらず首都圏の問題なのか。この疑問について,そもそも論,安全対策,避難計画,被ばくの四つの視点から問題を指摘したい。

第一が,そもそも論で,二つある。この原発は設置当初,周辺に人口密集地はなく,農地と小さな集落だけだった。しかし,設置後の周辺開発規制をしなかったために,時をへて人口が密集する市街地に取り囲まれる原発になってしまった(図3)。立地環境自体が,そもそも原子炉立地審査指針に違反しており,したがって,設置許可が取り消されられなければならない原発なのである。加えて,運転停止から10年,首都圏は一度も電力不足に陥っておらず,そもそも再稼働の必要がまったくない原発である。

図3 東海第二原発(左)と東海原発(右)


第二に,この原発は,耐震性,防火性,複合災害の安全対策について決定的に重大な問題が残されている。たとえば,運転開始から40年を超えたこの老朽原発が耐えうる基準地震動はわずか1,009ガルで,これは,東日本大震災の2,933ガル(宮城県栗原市)の1/3しかない。全長1,400kmのケーブルのうち難燃性ケーブルへの交換は15%にすぎず,ケーブルを通した火災拡大のリスクがある。大型船が津波で防潮堤に衝突するリスクなど,津波をはじめ風水害,コロナなどとの複合災害への対策も無視されている。

第三に,30km圏内の14市町村(対象人口94万人)には避難計画が義務づけられているが,94万人を県内および埼玉,千葉,栃木,群馬,福島県の計134市町村に避難させるという無謀な計画である。加えて,この計画は避難過程のみが対象で,避難所生活における安全,衛生,教育,医療,福祉は計画の範囲外である。避難計画は不可能であり,不全である。

第四に,被ばくが広範に及ぶことである。この問題を考える時,東海第二原発が,広い関東平野の北東端に位置していることに重大な意味があることを指摘しておきたい。この原発から北へ4km先にある日立市南部支所の風向観測によれば,3月から10月の卓越風は北東の風である。もし3〜10月に重大過酷事故が起きれば,北東の風が放射性プルームを首都圏へ向けて運ぶだろう(図4)


図4 東海第二原発と関東6都県


東海第二原発差止訴訟で原告側が明らかにしたことによれば,福島第一原発事故の最悪のシナリオになぞらえると,放射性物質は250km圏に及ぶ。この原発の北東方向100km先には東京があり,150km圏には4,245万人が住んでいる。この原発がもたらす被ばくの範囲と規模は,福島の比ではない。事故が起きれば,首都圏でも少なからぬ人々が避難の選択を余儀なくされるだろう。こうなれば首都は大混乱する。

チェルノブイリ法では,30km圏内と周辺のホットスポット,および実効線量5ミリシーベルト/年を超える地域の住民は移住しなければならないとされている。これに対して日本では,福島第一原発事故後,被ばくの限度をそれまでの年間1ミリシーベルトを20ミリシーベルトへ大幅に引き上げ,その上で,避難指示区域を次々と解除して避難者に帰還を促し,被ばくを強要する政策をとっているのである。 そもそも被ばくの影響は大勢の住民に及ぶので,本来であれば被ばくの限度を引き下げなければならない ***。東海第二原発が重大過酷事故を起こせば,そして,国が福島と同様の政策を取れば,間違いなく,茨城県の子どもたちと首都圏に住む子どもたちに甲状腺がんが多発するだろう。


理念なき茨城県避難計画,無謀な市町村避難計画

避難計画の無謀さを先に指摘した。もう少し敷衍して論じたい。現在,14市町村の避難計画が策定中だが(一部の市町で策定完了としている),避難先の多くは北東の風下方向,250km圏内にある。避難計画は,避難道中に加えて避難所生活でも県民に被ばくさせるものである。

これまでに公表されたデータと情報に沿って,どんな避難になるのか,自治体職員はどんな負担を負うのか,人口27万人の水戸市を取りあげてみてみる。

水戸市民は,茨城県内をはじめ群馬県,栃木県,千葉県,埼玉県の計40市町に受け入れられる。水戸市からもっとも遠い164km先の群馬県高崎市には,10,640人がバスまたは自家用車で移動する。 高崎市の正規職員数は2,349人,日常業務をしながら,水戸からやってくる1万人の避難者のために避難所開設準備をする。もう一方の水戸市職員はわずか1,384人。彼らは,避難先40市町の数100箇所あるいはそれ以上になるだろう,県内県外各地の避難所に出張し,その運営を担う。高崎市内の避難所に入る1万人のために,いったい何人の水戸市職員が出張するのだろうか。これらの数字を見るだけで計画の無謀さがわかる。

筆者は,2月,水戸市役所に行き,避難計画の未公表部分の情報開示請求をした。しかし,担当者は,未確定部分があるので開示できない,2022年3月までには市民の避難先の割り振り,避難先の乗用車駐車場確保問題(クルマは数万台規模になる)を解決し広報すると,窓口で涼やかに回答した。

茨城県の避難計画は,冒頭で「防災基本計画(原子力災害対策編)に基づき,あらかじめ避難計画を策定することとされている市町村の取組を支援するため」と書く。県民の生命・健康と財産の保全と確保,被ばく防止などの言辞も理念もいっさい書いていない。 自治体が策定する計画は通常,高らかに理念や目標を掲げて,計画で何を目指そうとするかが説明される。時に実現の難しさから空疎感を感じることもあるが,県の避難計画はその逆である。理念も目標もない。何を目指すか,市町村と県民に何も示そうとしない。これは,もはや計画たる資格を持たない計画というしかないが,これで市町村に避難計画の策定を後押ししている。


自立を目指し廃炉地域となる

原発運転の法定年限が来れば、必ず廃炉が決まる。もちろん、場合によってはそれ以前にいろいろな理由で決まることもある。 ここで,サイト解放という概念を確認しておきたい。サイト解放とは,廃炉終了後,土壌や残存する建物からの放射線による障害を防止し,サイトの自由な利用を可能にすることである。サイト解放の成果は,原子力施設による利用からサイトが解かれることであり,長らく自分たちの生活環境から遠ざけられていた環境が地域に戻されることである。

世界には,サイトが,緑地をはじめ住宅地,火力発電所,工場などへ転用された例がある。日本では,廃炉決定24基,サイト内の全基が廃炉決定されたのは福島第二原発だけである。廃炉が終了した後,跡地をどうするかについては,サイト解放基準がまだ策定されていないこともあって,事業者の計画や地元の議論は聞かれない。

ドイツ・ルブミン村のグライフスヴァルト原発では,政府によって原発サイトの一部が解放されると,これを受けて,ルブミンと原発事業者は工業団地へのサイト転用計画をたてた。この計画と取り組みが成功してルブミンは,原発5基の一挙廃炉というどん底の事態から立ち上がり,経済的再生を実現させることができた。

ルブミンの取り組みから学べることは,廃炉後のサイトをどうするかは,すぐれて地域の将来にかかる問題だということである。決して,サイトを所有する電力事業者だけの問題ではない。

しかるに,国は,国際原子力機関よりサイト解放基準を制定するよう勧告を受けながら,原子力政策にはサイト解放を明記せず,サイト解放基準の制定を遅らせ続けている。一方の原発立地地域の側も,原発依存を続けようとする自治体が多い。しかし,原発にそもそも残された稼働期間はわずかしかない上,原子力と化石から再生可能エネルギーへの転換が世界的潮流である。原発に固執することにどんな意味も利益もないのは明白である。

立地地域は,サイト解放を目指して,脱原発後の地域は何を目指したらいいか議論を起こすべきときに来ている。


東海村はどこを目指すべきか

東海村は,国の原子力政策のために地域空間を差し出し,原子力を中心とした都市空間づくりを進めてきた。その結果が,住宅地が原子力施設を取り囲む状況である。いま,東海第二原発が再稼働されそうだという事態に,村民だけでなく県民も,さらには首都圏の住民も大きな不安を抱き反対の声をあげている。再稼働を止めるとともに,東海村の危険な居住空間を改善していく必要がある。

大規模な再稼働対策工事を進めている原電は,再稼働のその後もサイトを継続利用することを考えているのだろう。しかし,発電はいずれ期限を迎えて終了,事業は縮小し,廃炉もいずれ完了する。東海村が廃炉地域になることは,遠い先のことではない。思考を働かせて未来のための市民的議論を始める時である ****。

半世紀前の原子力サイトを振り返ってみたい。そこはかつては広大な砂丘で,農地を荒らし,住宅の中にまで砂を侵入させるやっかいな砂丘だった。大正期から国家事業として植林が進められてできた国有県有の砂防林は,集落の入会地として利用される地域の資源となった。そこへ,原研がやってき,原発2基が設置されると,集落の住民は砂防林に立ち入ることができなくなり,住民の生活空間から離されていった(図5)


図5 JAEAサイトを横断する八間道路

八間道路は,村松虚空蔵堂から村松海岸へつづく砂の道路。両脇はJAEAの高いフェンスが張られている。賑やかだった道路もいまは通行する人はいない。


原発サイトを少しずつ解放させて地域の利用を始めたい。取り戻した地域資源をもとに原発のない地域の次の展開を描きたい。そして,それを地域再生計画の議論へとつなげていきたい。


* 柴田秀俊資料は,山崎正勝氏(東京工業大学名誉教授,科学史)が第一級の価値があると評した資料で,「設立趣意書」は,東海村の原子力開発に関する唯一の資料である。
** 乾 康代(2018)『原発都市 歪められた都市開発の未来』,幻冬舎ルネッサンス新書
*** 松田文夫(2020)『告発・原子力規制委員会 被ばくの実験台にされる子どもたち』,緑風出版
**** 尾松 亮,乾 康代,今井 照,大城 聡(2021)『原発「廃炉」地域ハンドブック』,東洋書店新社


『建築とまちづくり』,2021年4月号

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