映画『教育と愛国』を観て
瓜連の「あまや座」で,斉加尚代監督『教育と愛国』を見てきた。
教育基本法の改定後,学校教育の現場がどう動いているのか大変気になっていた。教科書問題,教員の過重労働,従軍慰安婦問題,歴史の改竄…。せっかく教員になれたのに,心と体がつづかずに職場を離れる若い人たちの話はよく聞いていた。私がいた教育学部というところが,これら深刻な問題にまったく対応できていないことも大きな心配事だった。
それにしても,学校教育の現場がこんなに政治に深く侵されているとは…。映画の冒頭で,学校教育の科目となった道徳の授業風景が映し出された。それは驚きの光景だった。
小学校の中学年と思われる教室での道徳の授業は,頭の毛がすけすけに薄く広い額が光り輝いている管理職らしき男性教員が授業をしていた。クラス担当と思われる若い男性教員は,教室の後ろで授業を見ていた。
授業内容は,他人の靴を靴箱から隠した子,その靴を元に戻した子,心配していた子の3人について,「良い」「悪い」「普通」のいずれか,あるいはそのレベルを判断させるものだった。私は,欽ちゃんの「良い子,悪い子,普通の子」を思い出した。
管理職教員が,子どもたちにどの子が「良い」「悪い」「普通」かを聞くと,カメラが入っていることを意識しているからなのか,あるいは,わかった子は元気よく手をあげなさいとあらかじめ指導されていたからなのか,多くの子どもたちが,天井に向けて真っ直ぐに手をあげた。当てられた子は,黒板の前に立って,靴を隠した子を「悪い」,靴を戻した子を「良い」,心配していた子を「普通」よりちょっと良い子目と答えた。
3人は良い悪いの尺度のどこに位置するかという質問だから,難しく考える必要はない。教師の期待がどこにあるかは小学生にもわかっているはずである。斜にかまえなければ誰でも答えられる。全員が手をあげてよさそうだが,手をあげない子もいた。きっと,問題の設定や教師の問いに疑問を抱いた子たちだ。私が小学生としてあの教室にいたなら,もやもやしてきっと,手をあげなかった一人だ。
靴を隠した子の思いや理由,靴を隠された子との関係などはここでは考えない。この授業が何を伝えたいとしているのかは明瞭である。
このほか,映画では,道徳の教科書検定で,パン屋を舞台にした話が日本の伝統尊重という観点から和菓子の話に書き換えさせられたという事実や,挨拶が先かおじぎが先かを問う記述が教科書にくわえられたという話も挿入された。上記授業実践をふくむ,これら3つの話だけでも,この「道徳」という科目が,馬鹿馬鹿しいと感じるほど目標も理念もなく,実にくだらない瑣末な事柄に神経をつかっているということがわかる。
映画は,さらにもっと深刻な話へ展開していく。「自虐史観」を排斥する「新しい歴史教科書」,戦争の史実を正しく記述した教科書会社の倒産,現場の教師たちが実践をとおしてつくりあげた教科書,公立中学校歴史専門の社会科教師の教育実践,自民党政府の政策・歴史観にそぐわない研究者を認めない日本学術会議会員任命拒否問題などが紹介された。
教科書が歪められ,教育が歪められている。それを支えているのが,自民党政府の政策と歴史観だ。当時の安倍晋三首相は,「日本人というアイデンティティを備えた国民をつくる。教育の現場を変えていく」と言った。伊藤隆氏(東大名誉教授)も,「僕らは自虐史観と言っている。日本人としての誇りを持てないような記述だ」と言う。
歴史を民族の自意識とつなげて構成させる,そうしなければならない,という考えは実に危険だ。『教育と愛国』は,自民党政府が望む「日本人」づくりに向けた取り組みが教育の現場で着実に進行していることを如実に示した。
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