密かにすすめられた東海原発の計画(東海村の原子力開発の歴史4)

脱原発とうかい塾会報『浜ぼうふう』第82号,2022年秋号,の記事です。



前回,日本原子力産業会議(原産)は,「汚れを知らぬ白紙の処女地」東海村に,「政府と中央の会社と連携して,世界に恥ずかしからぬ理想的な都市を建設する」という理想を掲げて,権力主義的,植民地主義的な開発を目指したことを紹介しました。

原産が目指した「理想的な都市建設」とは,日本最初の商業原発を中心とした最先端の近代工業都市をつくることでした。しかし,近代工業都市建設と言っても,出力の大きい商業原発を設置することは,原研の設置とは話がちがいすぎます。原産は,密やかに,しかし,とても大胆に原発設置の準備をすすめていきました。今回は,その過程を見ていきます。

原産は,まず,東海原子力都市開発株式会社(東海都市開発)を設立しました。商業原発を設置するとなれば,多くの企業が参加します。そのうち,村への進出を決めたのが,富士・古河,住友原子力工業,三菱原子力工業でした。東海都市開発は,密かに,これら4進出企業のために,先行的に用地を取得する仕事を担当しました。

下図は,東海都市開発が先行取得した用地の配置図です(「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」より)。全部で14ヶ所あります。図をみればわかるように,臨海部と国道6号をむすぶ村の骨格線となる原研通りを中心にして用地が確保されています。手書きなので正確さに欠けますが,現在の原子力事業所や給与住宅団地の位置と重ね合わせることができます。東海都市開発は,東海原発の設置が許可されるまでの約3年間,4進出企業が取得する予定の土地を管理しました。

図 東海原子力都市開発が先行取得した用地配置図


村のあちこちで,原子力開発用に土地が取得されていたわけですが,驚いたことに,毎日新聞,朝日新聞の記者も,村役人も気づくことはありませんでした。毎日新聞記者・河合武は,東海原発の設置は「いつの間にか理由もなく決まった」 と書いたほどでした。

なぜ,新聞記者にさえ気づかれなかったのでしょうか。それは,東海都市開発は,所有権ではなく,地上権を取得しただけだったからです。土地のレンタルなので,土地の登記簿にも表れません。このようにして,東海原発設置への準備は,大胆に,しかし,密やかにすすめられました。

原電が東海原発の設置計画を公表したのは,1958年5月のことでした。翌1959年3月,設置許可申請,同年12月,東海原発は設置が許可されました。

設置が許可されると,ここからが,本当の意味での東海村の原子力開発のスタートになりました。原子炉建設のために富士・古河が,現在の村立文化センターや体育館のあるところに工場を構えました。核燃料加工を担当する住友原子力工業と三菱原子力工業は,国道6号線沿いに工場をつくりました。村の住宅地が,これら原子力関係事業所の間に挟まれる,いわゆるサンドイッチ状態になる素地がこの時つくられたのです。原研設置決定から4,5年のできごとでした。



原子力施設でサンドイッチ状態の住宅地 (東海村の原子力開発の歴史1),2021年12月1日

東海村の住宅地はどのようにしてサンドイッチ型密集地になったのか(東海村の原子力開発の歴史 2),2022年2月12日

東海村の原子力開発に取り入れられた植民地支配(東海村の原子力開発の歴史3),2022年5月21日

原子力開発がおわっても開発はつづく(東海村の原子力開発の歴史5),2022年

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