中曽根康弘の未完の原子力都市計画法

2019年11月,中曽根康弘氏が101歳で他界した。氏は,原発を日本に導入した政治家で,原子力政策に多大な影響を与えたとされる。

その氏が生前,国会図書館に寄贈した「中曽根康弘関係文書(寄託)」がある。原資料,2,194点,書架延長44mという膨大なものだが,私は,ここで,氏が第6代原子力委員会委員長をしていた時の原子力関係資料を探したが何も見つけられなかった。原子力政策に大きな影響を与えたと評価される仕事をしながら,原子力委員長時代の関連資料が一点もないのはなぜなのか。

この時期の中曽根の取り組みを振り返ってみる。1959年6月,彼は,原子力委員長に就任した。その直後,原子力施設地帯整備懇談会(以下,懇談会)を開催した。懇談会は,原子炉立地にかかわる都市計画協議の場として設置されたもので,産業界,学者,茨城県知事,原子力委員会委員などが集められた。

彼が,就任直後に懇談会を開催した背景には,これより3ヶ月前の3月,日本初の商業原発となる東海原発の設置申請がなされ,その設置許可が年内にも出るという状況があった(表)


表 東海村の原子力開発(1956〜59年)


中曽根の胸のうちには,この切迫する事態にあって,原子力都市計画法を成立させるという思いがあった。懇談会から意見を拾い上げつつ法案をまとめようとしたのである。では,原子力都市計画法とはどんな法か,どんな狙いを持つ法なのか。彼は,論文で次のように述べる *。

「原子力平和利用の進展とそれに伴う原子力施設の増加は,原子力が包蔵する特殊性に関連し,これら施設とその周辺との関係を問題点として浮彫することとなつた。すなわち,原子力施設の増設にもかかわらず,その周辺は現状のまま放置しておいてよいのかどうか,原子力の特性から見てなんらかの対策を要するのではないか等々の問題が提起されてきた。そしてまた,これらの問題解決のために特別立法の必要が指摘されることとなつたのである。これがいわゆる原子力都市計画ないし原子力都市計画法の問題である」

「立法の方向としては,原子力施設が設置された場合における,万一の危険性への配慮を主としたその周辺との調整ないし周辺の整備ということに重点が置かれ,それにどの程度一般の都市計画的な考え方を導入するかということが問題になると思われる」

法案要綱によれば,法は次のような構想になっていた **。①内閣総理大臣が地域を指定し,②周辺地帯の整備計画を作成する,③周辺地帯の一部を緑地帯とする,④総理府に原子力施設周辺地帯審議会を設ける,④整備事業には特別な助成を行う,などである。

要するに,原発の周辺地域を整備と規制の2つの手法で,住民の安全確保をする。そのために政府内に専門審議会を設け,整備事業に助成するというものである。みごとなほどに画期的な内容だった。

中曽根のこの論文は1960年1月に発表された。書きあげられたのは1959年12月15日。論文の最後に,わざわざこの日にちが付記されたのだが,それは,東海原発の設置許可が出た14日の翌日に書きあげたという意味である。

法案は,おそらくその年1959年の秋には作成されていたが,秋国会に上程できなかった。その時の事情は「周辺地域の緑地化,建築制限等の規制的側面と工場地帯,産業関連設備の整備等の促進的側面とが併存するという,慎重に調整検討を要する点があるのみならず,関係各省との調整にも困難をきたし,懸案のまま見送られていた」と説明されている ***。これが何を意味するのか,その説明はこの後に回す。

中曽根は,12月,上の論文を書きながら,東海原発の設置許可の報を待った。そして,設置許可の報を受け,12月15日の日付を入れながら,改めて原子力都市計画法の必要を強く主張したのだった。

しかし,原子力都市計画法は,国会に上程されることはなく,歴史に埋もれていった。私は,もしこの法律が成立していたら,東海村,さらには全国の原発立地地域は現在とはまったく異なる環境になっていただろうと悔しく思っている。

なぜ上程できなかったのか。それは,現地・東海村の都市計画が,この法案よりも早い時期に決定され,開発事業がすすんでいたからである。そして,これら都市計画と開発事業は,原子力施設周辺を整備と規制という手法で住民の安全を確保するという,原子力都市計画法の理念とはほど遠いものだったからである。もう少し具体的に例をあげて説明してみよう。

東海村の都市計画は,法案作成よりも3年も早い1956年7月に決定されていた。そして,翌1957年には村内の開発が始まっていたのである。都市計画では,原子炉のある原研サイトは,驚くべきことだが用途地域無指定だった。住居地域はこの無指定の原研サイトに近接するように設定されていた。この都市計画のもとでつくられた開発計画では,原研や原電の給与住宅団地の用地は,なんと原子炉の至近に確保されていた。原研の給与住宅団地は,供用が急がれたため,すでに開発が始まっていた。単身者用給与住宅は原研サイトに隣接する地につくられ,家族用団地も原研サイトからわずか数キロの位置に開発された。

要するに,中曽根がその成立を願った原子力都市計画法は,もはや遅すぎて,法が求める整備と規制の実施は不可能だったからである。東海原発の設置が決まればなおのこと,開発推進を押しとどめることはできなくなった。

開発規制がないということは,実は,原発を誘致したい各地の農漁村の自治体にとっては,これを機に開発を起こしたいから好都合である。また,原発を設置したい事業者にとっては経済性や利便性の点から好ましかった。こうして,全国の原発立地地域で,周辺開発規制のない原発立地が普通のこととなった。

原子力開発黎明期における中曽根の原子力政策をまとめたい。東海村への原研設置が決定されるや,東海村では開発へ向けた動きが,「官民一致」で急速化していた。このような状況に鑑みれば,3年も遅れて原子力都市計画法を成立させることはもはや無理なことだった。それでも,中曽根は,粘り強く法成立を目指そうと取り組んだ。この事実は正しく記録しておかねばいけない。彼は,まさしく原発からの住民の安全確保に対する国の責務を深く考えていた政治家だった。

今となってはどうしようもないし,到底不可能なことだったが,初代原子力委員会委員長が,正力松太郎ではなく中曽根康弘だったら,原子力都市計画法を成立させていただろう。そして,東海村をはじめ全国の原発立地地域の状況は,今とは相当違うものになっていただろう。

それにしても,わからないことがある。中曽根は,上述のように,原子力都市計画法の法案を作り論文も残した。委員長時代の資料は相当あったはずである。なぜ,この時期の原子力行政にかかわる資料をなにも国会図書館に寄贈しなかったのだろう。法案,論文も含めて全部処分してしまったのだろうか。色々と考えるが,いまだわからないでいる。


* 中曽根康弘「原子力都市計画法の構想」『都市問題』51(1),都市市政調査会,1960年1月
** 黒沼 稔「日本における原子力政策の見直しと原子力都市計画法の提案」『都市問題』91(5),2000
*** 茨城県「原子力開発と地域社会との関連」,p.22, 1964


0コメント

  • 1000 / 1000