松田文夫『告発・原子力規制委員会 被ばくの実験台にされる子どもたち』(緑風出版,2020)を読む


原発は,稼働させれば,事故のリスクが発生し,これ以上の置き場も最終処分先もないのに放射性廃棄物が増えていく。過酷事故を起こせばその復興はきわめて困難である。そもそも福島の復興さえ先が見えていないのに,国は,それでもこの不条理な原発を推し進めようとしている。

都市計画から見ても,原発立地のありようはあまりにも不条理である。通常,住居地域は工業地域から離すが,立地地域では,原発サイトを工業地域に指定しても,周辺開発は禁止せず,まったくの野放図状態にしている。しかし,多くの立地地域は,用途地域を指定しない都市計画区域外で,規制が何もないのである。いずれの場合も,とにかく規制がないから,普通の町のようにサイト周辺から住宅や各種施設ができていく。東海村はその極端な例である。

原発事業者は「安全性を最優先」と言う。しかし,事業者と地元自治体が締結する各所の安全協定を見ればわかるが,安全とは「施設周辺の安全」「周辺環境の安全」である。「住民の安全」とは言わない。自治体も事業者も,住民の安全を守る,すなわち,住民を被ばくから守ることの責を明確に請け負おうとしないのである。

本書は,事故における住民の被ばく限度に関する問題を取り上げたものである。福島第一原発事故後,国は,被ばく限度を法定,年間1ミリシーベルトから20 ミリシーベルトに引き上げた。これは,避難していた人々を福島の汚染地域に帰還させる,という非情な政策なのである。本書は,この国策の深部に分け入り,被ばく限度の20ミリシーベルトという数値はいったいどこから来たのか,何が問題かを追究している。

松田さんは,各種関連法,国の各機関が出した文書,国際機関の声明など膨大な資料を読み込んで,20ミリシーベルトは,文部科学省が,2011年4月,福島県の学校再開に際して暫定的な目安として,国際放射線防護委員会(ICRP,民間の国際学術組織)の勧告の数値を引用したのにはじまり,環境省特別措置法(告示で引用),子ども・被災者支援法(内部文書で引用),福島復興再生特別措置法(規則で引用)でもこの数値が引用されたことを示した。

しかし,ICRP勧告における20ミリシーベルトには,そもそも理論的根拠がない。2019年には,ICRPは,新勧告案で緊急時被ばく限度における20という数値そのものを削除した。その一方で,ICRPは長期的には1ミリシーベルトを目指すべきとしており,評価できる側面もあった。

要するに,政府が採用している20ミリシーベルトは,そもそも理論的根拠がない上に,数値そのものの削除で,拠ってたつ根拠も失われてしまったのである。それでも,政府は,20ミリシーベルトを採用しつづけ,ICRPが求めている長期目標1ミリシーベルトも無視しつづけている。

以上のように,政府はICRPの数値を引用してきているが,ICRPばかりが放射線防護の国際学術機関ではない。他にも国際学術機関は存在するが,政府がICRPの声明等を採用したのはそれなりの理由がある。 松田さんは,ICRPが驚くべき思想に立脚していることも指摘している。その部分を引用する。

緊急時被ばく状況に続く現存被ばく状況の場合,放射線源は制御可能になるが,状況の制御可能性は困難なままであり,日常生活において住民は常に警戒することが求められる。これは,汚染地域に居住する住民にとって,また,総じて社会にとって重荷となる。
しかしながら,住民および社会のいずれも被災した地域に居住し続けることに便益を見出すであろう。国は一般にその領土の一部を失うことを受け入れることはできず,また住民のほとんどは非汚染地域に(自発的であってもなくても)移住させられるよりも一般に自分の居住に留まる方を好んでいる。
その結果,汚染レベルが持続可能な人間活動を妨げるほど高くない場合,当局は人々に汚染地域を放棄させるのではなく,むしろ汚染地域での生活を継続するために必要なすべての防護措置を履行しようとするであろう。
これらを考慮すれば,適切な参考レベルは,できれば委員会によって提案された1〜20ミリシーベルトのバンドで選ばれるべきであると示唆される。(本書pp.138-139)

要するに,ICRPの考えは,汚染地に住民を帰還させることを基本においており,政府にとって,ICRPは,被災者への損害賠償,住宅と生活保障コストを低減するために都合のよい理屈を提供してくれるアドバイザーだったのである。

松田さんは主張する。本来なら被ばくの影響は大勢の住民に及ぶから,被ばくの限度を引き下げるべきである。しかし,政府は,上記のようなICRPの思想にしたがってまったく正反対の措置をとった。この結果,特に放射線の影響を受けやすい子どもたちが,放射線障害発症のリスクにさらされているのである。

本書の表紙には,赤い木の実を掲げ,少し首を傾げて,遠くを見つめる幼児が描かれている。松田さんの究極の主張は「被ばくの実験台にされる子どもたち」である。私たちは,事故で発生した放射能の被曝から,この幼い子らを守らないといけないと思う。

「あとがき」にこんなことが書かれている。表紙のこの絵は,松田さんの友人の妻の作品という。その友人は希少がんで亡くなった。松田さんは,動燃事業団への出向が原因ではないかと考えていると書いている。


私は,この部分を読んで思い出すことがあった。『原研二十年史』を読んでいたとき,「原研在職中に逝去された職員」というギョッとするリストを見つけたのである(p.286)。ここには,1957年に原研が開所されてから1975年9月までの18年間の29人の逝去者が一覧表になっている **。

逝去のもっとも早い例が,原研開所2年後の59年,33歳(工務課)で逝去である。さらに,翌60年,57歳(工務課)で逝去,というように,驚くような数字がつづいている。逝去時の最年少年齢は26歳,逝去時の勤務年数1年未満という逝去例もある。共通するのは,逝去時の年齢が一様に若いことである。一つの職場で,こんな数字が並ぶとはとても異常な感じがする。

『原研三十年史』では,このような公表はさすがにまずいと考えたのか,このリストはない。『原研二十年史』編集者は,何の目的でこのリストを作成,掲載したのだろうか。当時の労務環境は適切に管理されていたのだろうか,放射線防護対策はどうだったのだろうか。


** https://twitter.com/musashimutsuko/status/1229594854625202176


松田さんご本人がこの問題について語る講演会を開きます。

「いばらき未来会議」発足記念 松田文夫講演会,11月15日(日)14〜16時,ザ・ヒロサワ・シティ会館(県民文化センター)水戸市千波町,参加費500円,要予約


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