原発と植民地主義

これまで, 1950年代後半から始まった東海村の開発については何度かにわたって論考を重ねてきた。今回は,これらを概観して東海村の開発の性格はどういうものかを考える。

まずは,東海村における開発目標は,「原子力センター」の建設だったということを確認しておきたい。国は,1956年4月,日本原子力研究所(原研)の東海村への設置を決めた。この時,設置は原研だけだったが,国は,原子力センターの建設を喧伝し,原研のほか,原子燃料公社,アイソトープセンター,放射線医学総合研究所(放医研)などを合わせて東海村に設置することを計画した。

1956年7月,村内にこれら原子力施設を設置することから,当時わずか1.2万人の小さな村に都市計画(用途地域)が指定された。当時の用途地域は工業都市に適用されていた。東海村のように,中心都市をともなわず,小さな村が単体で指定されることはきわめて異例のことだった。

東海村の開発には,国の機関である原研をはじめ原子燃料公社,放医研の建設に予算が投じられた(原子力白書,昭和36年7月)。このほか,燃料加工工場など民間企業の進出も予定されたが,これら民間企業については,日本原子力産業会議(原産)が計画した。

原産は,進出企業の用地取得のほか,原研はじめ国の原子力機関と民間企業が共同利用する施設(ガス供給施設,購買施設,高級ホテルなど)の建設を計画し,不動産事業者「東海原子力都市開発株式会社」を設立し担当させた。

以上が,東海村における原子力開発のあらましである。2019年夏のいくつかの星空講義に書いておいた。


原産が東海村に求めた原子力のユートピア

ここから本論である。今回は,原産が東海村ですすめた開発を支えた思想はどうなものだったのか。開発の思想は,①ユートピア思想,②原産の制御,③「東海村の原子力ムラ」という新しいコミュニティ,の3点でまとめられる。

開発イデオロギーの第一,ユートピア思想について。「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」(以下,設立趣意書,原産作成,1957年3月)は,当該会社の設立趣意書だが,中身は原産による東海村の開発計画書である。その前文を読む。

「(東海村は)風光明媚な自然環境と大部分の住民が純農家であるこの地はいわば汚れを知らぬ白紙のままの処女地であり,近代科学の粋を集めた原子力センターの所在地にふさわしい。学問と文化の理想的模範都市を設営するには蓋し絶好の立地条件にあると言えよう。従って,官民一致して,豫め周到な都市計画を用意し,強力にその具体化を図る事が必要であろう」

原研の東海村設置が決まった1956年当時の東海村は,その前年に石神村と村松村が合併してできた新しい村である。田園が広がるなかに集落が点在し,市街地は太平洋に隣接する林の中の村松虚空蔵堂の門前町と,内陸側もっとも奥を走る国道6号沿いの旧石神村の街村,国鉄東海駅周辺である。

原産が,この東海村を「汚れを知らぬ白紙のままの処女地」「理想的模範都市を設営するには絶好の立地条件にある」と書いた意味は,既存の市街地は小さなこの3カ所だけで,そのほかは一面,農地と平地林の農村であり,原子力センターを建設するのに再開発がまったく不要で,地図の上に自在に道路を引き,施設を配置できるという意味だった。そして,こうしてつくられる理想的都市は今後,全国で展開するだろう原子力都市の模範になるという展望を含意して,理想的模範都市と書いたと思われる。

しかし,原産が描いたユートピアは,決してユートピアなどではない。原子炉をはじめ多数の原子力施設を集中立地させる危険な原子力都市だが,原産は,その立地適合性や安全性についてはいっさい不問に付した。


ユートピア建設は原産が制御する

二つ目の開発イデオロギーは,原産の制御である。原産の制御してユートピアを建設するという信念である。

「いま,何等の積極的な対策もなく成行きに放置するならば,平和な東海村は忽ち策動と利権の巷と化し,徒らに地元の動揺と犠牲を増すばかりか,諸々の建設事業にも支障を来たし,当初の希望とは凡そ正反対の低俗極まる植民都市となってしまうだろう。われわれはこれを深く憂う次第である」
「官民一致して,豫め周到な都市計画を用意し,強力にその具体化を図る事が必要であろう」

原産は,東海村が策動と利権争いの場となるのを避けるということを理由にして,自らが,村全体を俯瞰して原子力センターを建設することを目指した。そのために,茨城県の都市計画行政に介入,「官民一致して」東海村の都市計画を定めた。原産に都合のよい都市計画を決定させ,これによって自身の開発計画に法的根拠を与えることができた。

強調しておきたいが,「官民一致して」都市計画をつくるという制度は日本にはない。原産はここまでして,自らの開発計画を実現したかったのである。


原産がつくった新しいコミュニティ「東海村の原子力ムラ」

開発イデオロギーの三つ目は,「東海村の原子力ムラ」という新しいコミュニティである。東海村の原子力ムラとは筆者が名づけたものである。原子力ムラの企業と住民のために,集合住宅,ガス設備やマーケット,国内外の研究者・視察者専用のホテルが整備された。ムラの住民は,これまで村にはなかったこれら近代的な施設や設備による新しい都市的生活を享受した。

東海村の原子力ムラとは,第一義的には,ムラの共同利用施設・設備の独占的利用コミュニティという意味である。ムラの住民は,ムラの共同利用施設・設備の独占的利用をとおして,地元住民に対して優越的な地位が与えられたのである。原産が目指したユートピアは,地元住民と原子力ムラの住民との分離,原子力ムラの優越を前提としていた。


科学展示館「アトムワールド」に展示された差別的展示

ここまで書いてきて思い起こされるのが,日本原子力研究開発機構(JAEA,旧動燃)の科学展示館「アトムワールド」である(図)。この施設には,原子力の開発と利用,安全管理についてのサイクル館,科学の体験ゾーンのファミリー館の2つの展示ゾーンがあった。


ファミリー館のコミュニティギャラリーには,古代から現在にいたる東海村の「歴史」が紹介されていた。その歴史とは,原研が誘致されるまで東海村の農民は文明に浴さず未開の生活をしていたが,原子力の科学技術によって村は近代都市へ発展したという歴史である。これを再現模型で説明していた。3.11後,施設は閉館された。

原子力科学館で地元東海村の歴史を取り上げるなら,地元に敬意を払い,史料にもとづいた科学的アプローチで歴史展示をすべきだが,JAEAにはそのような視点はなく,権力をもった入植者のごとく独善的なストーリを仕立てあげた。

JAEAのこの展示は,原産のユートピア建設の理念と実によく呼応している。

原産は,1956年3月,初代原子力委員長正力松太郎が,設立を提唱し,設立声明文を発表してできた原子力産業推進の民間事業者団体である。原産設立の中心人物・正力は,戦前は内務省官吏,敗戦時は大政翼賛会の管理職だった。そして,原産加盟の企業で,東海村に進出した住友原子力工業,三菱原子力工業,富士電気はいずれも戦前の財閥グループの一員で,戦争中は,侵略戦争に加担した企業である。要するに,原産の中核部分は,侵略戦争のイデオロギー,植民地主義のイデオロギーで構成されていた。

東海村の開発イデオロギーとして,ユートピア思想,原産の制御,「東海村の原子力ムラ」という新しいコミュニティの3点で説明してきたが,これらは,原産の植民地主義のイデオロギーを再生産したものだったと言えよう。



* 「原発と植民地主義」は,6月13日,「9.30茨城集会実行委員会」主催の学習会でのお話したものの一部を文章化したものです。

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