「原子力センター」建設を担った東海原子力都市開発

しんぶん赤旗6月6日「2019 焦点・論点」に「都市開発の視点から再稼働に警鐘 / 安全ゆがめた『東海モデル』 / 命脅かす原発と共存できぬ」が掲載された。この記事は,5月10日の星空講義「原発と住環境」がきっかけである。講義を聴いていた赤旗記者・高橋さんが,住環境という切り口が新しいと取材してくれてできた記事である。記事の真ん中に横書きで大きく書かれたタイトル「安全ゆがめた『東海モデル』」「命脅かす原発を共存できぬ」に感動した。よく表現していただいたと思う。

今日は,この記事と連動させて,東海原子力都市開発株式会社とは何なのか,何をしたのか,東海村の原子力開発の闇の部分に迫りたい。ただし,東海原子力都市開発の実像把握はなかなかむずかしく,まだ追究の入り口で立ちすくんでいる状態である。


 地元の人たちからしばしば,東海原発は知らないうちにやってきたと聞く。朝日新聞記者による『それでも日本人は原発を選んだ』でも同じことが書かれている *。しかし,原研設置がきまった当初から,茨城県は,「原子力センター」「原子力センター工業圏」を建設すると喧伝しており,茨城新聞も「原子力センターとなるわが茨城」の論説なども載せているから,地元でもまったくの寝耳に水ではなかったはずである。

 ただ,「原子力センター」とはどういうものか,県議会でも村議会でもよく議論された記録はなく,県知事も「原子力センターがあるからどこにも負けない工業地帯をつくる」と答弁するなど,通常の工業地帯と同じものをイメージしていたような軽さがある。

「原子力センター」のルーツは,アメリカ・アイゼンハワー政権の「アジア原子力センター」である。衆議院議員中曽根康弘が中心になって日本への誘致をしていたが,これに失敗。その直後,東海村に日本原子力研究所(原研)の設置が決まった。そこで,原研設置をいわば足場にして,日本の原子力センター建設を決めたのである。

 しかし,同じ「原子力センター」と言っても,アジア原子力センターと日本の原子力センターは,その狙いも中身も異なる,まったくの別物である。前者は,アメリカが,ソ連に対抗して東南アジア諸国を自由主義圏に取り込むことが目的で,農業,医学,工業の分野に原子力を応用することで開発援助しようとするものだった。研究炉の運転も目指されており,条件が整えば,将来の商業炉のための訓練に備えられる小型発電炉を提供することが企図された。しかし,商業炉の設置は構想外だった。

他方,日本の原子力センターは,東海村に原研設置を決めた時から商業原発の設置が構想されていた。原研が設置される東海村の国県有の広大な防砂林は原発にも適地と見込まれたのである。日本の「原子力センター」は,原発を中心とした原子力施設集中地区として構想されたもので,原発推進のために名前を借りただけのものだった。

この原子力センター建設に無視できない役割を担ったのが,東海原子力都市開発株式会社(以下,東海都市開発)である。原子力委員会初代委員長・正力松太郎に,日本への原子力の平和利用導入を勧めたとされる柴田秀利が所有する文書の中に「東海原子力都市開発株式会社 設立趣意書」という文書がある(図1)。1957年の文書である **。

 図1 東海原子力都市開発株式会社設立趣意書


これは,東海村の原子力開発史を解く重要な文書である。重要だという根拠は次の3点である。①初代原子力委員会委員長・正力松太郎に原子力の平和利用を勧めたとされる柴田秀利が所有する文書の中にあった。②政府の「原子力センター」建設を請け負うかのように用地取得,土地斡旋,公共的施設建設,ガス供給などの各種事業を実施することを明記している。③実際に,東海都市開発は,1957年の時点ですでに村内14か所に事業用地を確保しており,それらは1か所を除いて,現在の燃料加工事業所,原研や原電の給与住宅団地などの位置とぴったりと符合する。

設立趣意書は,「授権資本4,000万円,1,000万円払い込みを持って着手し,1957年度前半期に全額払い込みを完了する」と書いていて,株式会社としての体裁を整えつつあることを示している。しかし,会社登記は水戸でも東京でも見つけることができなかった。この「会社」の実像に迫るのがなかなか難しい所以である。

とりあえずは,設立趣意書を手掛かりに東海都市開発が,東海村でどのような事業を展開していたのかを見ていく。

創立事務所は東海村真崎とあるだけで地番も電話番号の記載がない。東京事務所は,丸の内三菱仲四号館のR.I.Aと明記されている。RIA建築綜合研究所(RIA)は,山口文象が建築家仲間と設立した建築設計事務所で,東海都市開発はここに間借りしていたようである。

山口は,モダニズム建築の旗手で和風住宅にも名作を残した建築家。一体「原子力センター」とどんなつながりがあるのか,当初は見当もつかなかった。一つ見つけたのが,山口が,戦前の日本電力の嘱託技師として黒部川第二発電所・ダム(1936年,現関西電力)などを設計しているという事実である ***。戦前の電気供給施設設計にかかわる何らかの人脈で,東海都市開発へとつながったのだろうか。ただし,東海村の「原子力センター」建設にかかわって何らかの建築設計をしたという記録は見つかっていない。現時点では,RIAは単なる間借り先,または住所名義を借りただけで,RIAは東海村での建築設計にはかかわっていないというのが,私の見立てである。

東海都市開発の事業は,1957年度と1958年度について記載されている。

① 1957年年度: 44,000坪(14.52ha)の地上権買収,事務所建築(建坪50坪,木造平屋建て),学生会館建築(建坪200坪,木造二階建て,原研見学学生宿泊,講演会会場等の利用),プロパンガス供給事業,マーケット建築(原研給与住宅地内,70坪,鉄骨造平屋建て,貸付店舗または直営)

② 1958年度: 約66,000坪(21.8ha)の地上権買収,マーケット増設(原研給与住宅団地内,2棟延140坪,貸付店舗または直営),高級ホテル建築(300坪,木造二階建て,委託または直営),映画館建築(各住宅ブロッックよりもっとも便宜の場所を選ぶ,200坪,鉄筋コンクリート造平屋建て)。

東海都市開発が取得した土地の記載もある。1957年度と1958年度で,それぞれ44,000坪,66,000坪,合計110,000坪(36.3ha),取得した土地は合計14か所にのぼる(図2)。これらはいずれも所有権ではなく地上権である。土地の登記を確認したが地上権の登記はなく,ここでも東海都市開発の名前をみつけることはできなかった。


図2 東海都市開発が確保した村内の土地


この図もまた大変重要である。1957年時点では,原電はまだ設立されていないが,いずれ原発を東海村に設置するという意図がここに読み取れるからである。

一つは,臨海部の広大な防砂林のほぼ全域を「原子力研究敷地」と記載して,広大な土地を原子力開発用地とすることを明示しているという点である。実際に,1957年10年には現在の原電敷地になる部分で秘密裏にボーリング調査をしている *。

二つ目に,内陸側南北に走る陸前浜街道(国道6号線)と原研通り(予定)が交差する地点(二軒茶屋)の土地,東海駅南の土地などのほか,「原発社宅」と明記する土地までが確保されている点である。その後,二軒茶屋には三菱,住友,駅南には古河,富士電機がやってくるのだが,燃料加工施設や原電給与住宅団地など,原発設置を前提とする各種企業の誘致が念頭におかれていた。

原研通り沿道の給与住宅団地は,供用が急がれたことから先行して開発がすすめられたが,三菱,住友などの事業所向けの土地は,地上権を持つ東海都市開発がしばらく管理していた(図)。

住友原子力工業KK(その後JCO)の建設用地 ****


1959年12月,東海原発の設置許可が出ると,これを待っていた三菱,住友などは,この前後に相次いで所有権を取得し,事業所を建設した。こうして,原電と民間事業者は歩みを揃えて,東海村の原子力開発をすすめていったのである。


*   朝日新聞取材班『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子力ムラの半世紀』,朝日新聞出版社,2014
**  文書は,柴田秀利氏の義理の甥,奥田謙造氏が保管している。
*** RIA建築綜合研究所 近藤正一『建築家山口文象 人と作品』,1982
****  東海村役場『東海』,1962


(原電茨城事務所前抗議行動「星空講義」6,2019年6月7日)

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