東海村の「原子力センター」建設と農村の衰退 

 東海村の農村の変化はどのようなものだったのか,それは全国の農村の変化とどう違うのか。

は,東海村須和間区の中心部分の模型である。須和間区は,1970年代以降,3つの戸建て住宅地が開発された,村でもとりわけ開発の激しい地区である。集落の形態は散居村で,農家の周辺はさつまいも畑が広がっている。写真の手前には,畑地帯総合整備事業で整備された一角があり,横長に整然と区画された畑と道路が見える。模型の中央奥には,開発中の戸建て住宅団地,フローレスタ須和間も見える。


図 東海村須和間区の模型 (茨城大学工学部寺内研究室(当時)製作,2006年)


2005年8月から11月,2010年8月から10月,東海村で人生を歩んだ人々のオーラルヒストリーを集めた。合計72人に話を伺った。その内訳は,出身別では,地元出身転出なし35人,Uターン8人,来住29人。職業別では,原子力関係勤務18人,日立勤務17人,農業14人,公務員13人などであった。

今回は,Aさん(当時86)のオーラルヒストリーを取り上げる *。上の出身分類でいえば「地元出身転出なし」である。

Aさんは,1919年東海村で生まれ,子どもの時から農業を手伝っていた。21歳(1940年)で軍隊に入隊,復員後,農業に復業,46歳(1965年)でJCOに就職,定年まで働いた。子どもの時代から戦争を挟んで46歳まで専業農家,その後60歳(1979年)までの14年間を兼業農家,以後,現在まで26年間,専業農家として農業を営んできた。

昭和30年代まで農業の動力は牛馬だった。Aさんが最初に導入した農業機械はトラクター,昭和40年のことだった。この年は,AさんがJCOに就職した年でもある。 安定した賃金収入が得られるようになって,トラクター購入に踏み切ったのだろう。

を見てほしい。農家世帯と勤労者世帯の年収比較である **。昭和27年の農家世帯は28万円,勤労者世帯は25万円で,農家の方が勤労者世帯より収入は多かった。ところが,その5年後の昭和32年は,どちらの世帯も収入は伸びたものの,農家世帯は34万円,勤労者世帯は39万円で,農家世帯と勤労者世帯が逆転し,後者の方が多くなった。その伸び率に,農家世帯21.4%,勤労者世帯56.0%と,大きな差が出たからである。


表 農家世帯と勤労者世帯の年収比較 


農家の農業は家族農業で,家族複数人で農業に従事している。他方,勤労者世帯では,働いているのは男一人で,その妻は専業主婦である。つまり,農家は家族で働いて34万円,都市の勤労者世帯は男一人で39万円を稼いだ。労働者一人当たりの収入でみると,農家と都市勤労者世帯は雲泥の差となった。

高度経済成長期,農家は,収入は都市勤労者世帯ほどに伸びず,むしろ著しく目減りした。Aさんが46歳で兼業農家になったこと,そして,これを機にトラクターを購入したことの背景事情が理解できる。

当時の日本の耕地面積は,昭和36年(1961年)に609万haでピークを記録していた。しかし,これ以後,少しずつ減り始め,昭和40年代に入ると,減少のピッチは大きくなっていった(耕地及び作付け面積統計)。平成21年(2009年)は460万haというから,48年の間に,耕地は32.4%減少した。Aさんが農外就業した昭和40年は,まさに日本の農業の曲がり角の真ん中にあった時期である。

東海村はどうだっただろうか。経営耕地面積は昭和30年(1955年)の1556.7haがピークだった。原子力研究所の設置が決まる前年である。それが,平成17年(2005年)の737.4haへ,52.6%減少した。東海村では,耕地面積のピークは,全国平均より6年早かった。また,減少率も52.6%と,全国平均32.4%に比べて,20ポイントも大きかった(若干,比較の起点と期間が違うが)。

東海村は,原研設置を契機に,農業から「原子力センター」建設へ,大きく舵を切ったのである。原子力事業所と給与住宅団地の建設,加えて,東海村の北に隣接する日立市の日立製作所勤務世帯の持ち家需要の急増が,東海村での大量の宅地開発につながった。

東海村では,今,休耕地も急増している。Aさんも,かつては農地を貸し付けていたが,現在は借り手がおらず休耕地している農地があるという。農業のなり手の減少と農業の衰退で,農耕文化も廃れている。Aさんは,かつては,田植え時には豊作を祈念して土手で酒と魚で酒宴を開き,祝い事や行事があれば持ち回りでやはり酒宴を開いた。しかし,今は,そうした行事もなくなったという。

当然だが,農家も急減した。須和間区では,農家は43.4%,うち専業農家は17.0%(2006年アンケート調査)だが,村全体では農家人口はわずか3%である(国勢調査2015年)。

「原子力センター」建設と並行してすすんでいた東海村の農村の衰退は,東海村だけのものではなく,全国でも同じように進んでいた。しかし,東海村における農村の衰退は,「原子力センター」建設と村の原子力ムラへの貢献との引き換えであったことを理解しておく必要がある。


* Aさんのオーラルヒストリーは,東海村船場区の農村集落の変化展開を卒業研究論文にまとめたKさんによるものです.
** 並木正吉『農村は変わる』,岩波新書,1960年.



(原電茨城事務所前抗議行動「星空講義」19,2019年11月1日)

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