東海村の「原子力センター」建設と原子力ムラ(学習会要旨)

 前東海村村長,村上達也氏が,次のような指摘をしている。

「東海村は原子力研究所(原研)を誘致したが,いざふたを開けると原子力発電所が作られ,次々と原子力関係の施設が作られていった。国に騙されていた」*。

「騙された」というのは大体その通りである。「大体その通り」というのは,AをBと偽って騙すよくある方法ではない,という意味である。Aを隠し続け,十全に詰めてもう後には戻れない段階までもってきたところで初めて通知する方法で善意の相手を騙す,という卑劣なやり方である。

地元では,村民の知らないうちに東海原発の設置が決まっていったという話をよく聞く。『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞取材班)でも,同様のことが書かれている **。

原電が東海村を候補地に選んだ経緯について,当時の著名な原子力記者だった毎日新聞の河合武はこう記した。
「東海村に英国型発電炉を置くことはいつ,なぜ,きまったのかという疑問が出てくる。その答えは『いつの間にか』『理由もなく』という禅問答のようなものになってしまう」「原電は最初からここしか考えず,東海村設置ということで設計し入札をとり,いつのまにか既成事実となってしまったのだ」(河合『不思議な国の原子力』)

しかし,事実は,「いつの間にか」でも「理由もなく」でもない。実は,1956年4月,原研設置が決定されるや,茨城県と東海村は,進出企業のために受け入れの態勢をつくり, 原発設置に向けた準備が用意周到に着実に進められていた。しかし,当時の原子力記者に気づかれることはなかった。

原研につづいて,東海村に原発と関連施設を集中立地させる「原子力センター」を計画,推進したアクターは二人である。一人は,東海村の将来図を描いた日本原子力産業会議(原産)で,もう一人は,その下で動いた「東海原子力都市開発株式会社」(東海都市開発)である。

原産は,原子力センターを計画し,東海都市開発は,その計画を実行した。 原産は,遅くとも1957年3月までに,東海村の将来図を描いた。東海村の将来図は,「東海村の立体的図板」として,1957年5月に東京と大阪で開催された「原子力産業展覧会」で発表された。

東海都市開発は,東海村の将来図を実現させる事業を遂行するために組織された。東海都市開発の事業は二つある。一つは,村内に原子力事業所の用地を確保すること,もう一つは,村内に進出する原子力事業所の共用施設を建設することであった。

一つ目の事業所用地については,1957年3月までに村内14箇所の土地の地上権を確保した。資料によれば,これら用地の面積は計35haにのぼる。これらは,その後,三菱,住友,古川・富士電機などに斡旋され,それぞれ事業所,工場が建設された。

従業員の給与住宅団地の用地も確保されていた。その中には,「原発住宅」もあった。これも,遅くとも1957年3月までに確保されていた。まだ原発事業者である日本原子力発電(原電)も設立されていなかった時期である。当然のことだが,原発計画さえまだない時期である。原産は,事業主体がなく,原発計画もまだない段階から,原発設置を見込んでいたのである。その後,東海原発は東海村に設置され,同地には確かに,原電の滝坂住宅が建設された。

東海都市開発のもう一つの事業は,原子力事業所が共用する施設の建設である。資料には,事務所,学生会館,マーケット,プロパンガス供給事業,高級ホテルが記載されている。事務所は,各種共用施設の管理事務所であろう。マーケットは,原研長堀住宅や荒谷台住宅内に設置された共同購買施設のことであろう。

高級ホテルは,阿漕ヶ浦ほとりに建てられ「東海クラブ」と名づけられた。 東海クラブは,鉄筋コンクリート二階建て,原子力関係者や外国人技術者の宿泊施設として利用された。1964年に実施された国際原子力機構・第一回放射線研修コースに参加した研修生は,日本人研修生は宿泊できず,外国人学生が宿泊できたと記録している。その後,水戸市など近隣都市でホテルが増え,1980年,ホテル事業は終了,建物は1996年に解体された。

1959年12月,日本初の商業原発,東海原発の設置が許可されると,その前後に,住友や三菱などが,東海都市開発があらかじめ確保していた用地の斡旋をうけて,あいついで所有権を取得,事務所や工場の建設を始めた。各企業は,原電とあゆみを揃えて,東海村での事業開始に向けて動き出したのである。

原産,原子力センター,原子力ムラの関係を図1に示した。


図1 原子力産業会議,原子力センター,原子力ムラの関係


東海村には,原研通り,原電通り,動燃通りと名付けられている3本の計画道路がある(図2)。いずれも,原研,原電,動燃サイトの正門から一直線に国道6号線に接続している。国道6号線は,当時,村唯一の物流の中心道路であった。村ではこれは避難道路として建設されたと説明されるが,道路の起点位置と接続関係からして,3原子力機関に最大限の便宜を図った道路である。

図2 東海村の原子力関係事業所の配置と3本の計画道路(東海村HPより)


さらに,図2は,原子力事業所は,臨海部と国道6号線沿線に並んでおり,村民の居住地はこれら2箇所の原子力事業所集中地区に挟まれていることも示している。東海村の事業所集中地区の配置,道路構成のいずれでみても,東海村の構成は,原子力ムラに最大の便宜を図ったものであり,決して,村民の安全確保思想に基づくものはなかったのである。

以上は,『原発都市 歪められた都市開発の未来』(2018年10月)と,「須和間の夕日 / 乾 康代のブログ」に2019年6〜8月、発表した論考をもとに構成し,10月に水戸で開かれた「社会の平和を考える会」の学習会でお話しした内容である。参考にした筆者のブログを下に示した***。


* COOP JOSO NEWS LETTER 20189-4,常総生活協同組合,2018年9月10日.
** 朝日新聞取材班『それでも日本人は原発を選んだ 東海村と原子力ムラの半世紀』,朝日新聞出版社. 2014年.
***「原子力センター」建設を担った東海原子力都市開発(6/7)
日本原子力産業会議が描いた東海村の「原子力センター」(6/28)
東海モデルを形づくった日本原子力産業会議(8/2)
東海村の原子力開発史で見つけた3事実(8/5)


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