東海村60年の歴史 原産による植民地支配と開発信奉
NONUKES voice Vol.30(2022年1月号,鹿砦社)に寄稿した記事です。
依頼されたテーマは「東海村の問題点」。夏の村長戦中,問題だと思ったことはいっぱいありましたが,初めての寄稿なので,私にとってもっとも基本的で重要な問題,つまり,村で安全に住まいつづけられるか,を取り上げました。
安全な村への転換の機会を逃してきた東海村
1999年9月31日,東海村のJCOで臨界事故が起こり,3人の死傷者と667人の被ばく者を出した。ウラン燃料加工工場のJCOは住宅地の中で操業していた。この事実に私は震駭した。
私は,原発に住宅地を近づけるといった,絶対してはいけない開発をしつづけてきた東海村の間違いを訴えつづけてきた。JCO臨界事故の悲惨な経験は,安全な村づくりへの転換を図るチャンスだったが,転換は起こらなかった。事故から20年目の2019年9月,事故時の村長,村上達也氏は,村内で開かれたシンポジウムで,「ウラン燃料工場が町の中でよかったのか」と,村のあり方に関する根本的な問いを投げかけたが,遅すぎた。
二度目の転換のチャンスは,12年後の2011年に訪れた。東日本大震災で,福島第一原発事故が起こり,東海第二原発も全電源喪失と紙一重だった。この年,村上村長(当時)は脱原発を表明したが,地元原発は大災害を免れたこともあって,村長の脱原発宣言で終わった。2013年,村上村長は,山田修氏を後継者に指名して村長職から退いた。
新しく村長となった山田氏は,原発容認であることははっきりしていたが,2019年,原子力業界雑誌で村長として対談し,建前上の中立の立場を忘れて再稼働推進を主張しただけでなく,再稼働反対を訴える住民を「冷静に考えられない人たち」と蔑んだ。
2020年9月,その山田村長が幹部職員を集めて出した訓示は,臨界事故を「自分ごと」とし「覚悟」を持てという精神論だった。そして,今年9月,三選された村長は,核燃料加工工場の三菱原子燃料至近の石神学区と,原発と再処理施設に近い照沼学区とみられる地区で,若い世代の定住を目指して規制を緩和し,宅地開発をするという考えを明らかにした。
これまでも村は,原発近くで住宅地を開発しつづけてきたが,危険な住宅地をまだつくるというのである。半世紀にわたる村の開発推進策の背景には,安全な村づくりへの転換どころか,どんな原発事故を経験しても揺るがない安全神話がある(図1)。
図1 東海村の原発(左:東海第二原発,右:東海原発,2021年10月撮影)
60年前の原子力開発図
なぜ,東海村では原発周辺で住宅地を開発することが可能なのだろうか。この答えを導くには,村の原子力開発60年を辿る必要があるが,その前に,村の問題状況についてもう少し説明を加えておきたい。
現在,村には原子力関連事業所が11もある。東海第二原発,再処理施設など5事業所が臨海部に並び,核燃料加工工場のJCO(事故後,操業停止),三菱原子燃料など4事業所が原発からもっとも遠い内陸側の国道6号線沿いに並んでいる。このほかにも工業団地の中に1事業所,住宅地の中に1事業所ある。村の住宅地は,これらの原子力事業所によっていわばサンドイッチ状態にある。常識を超えるこのような危険な開発をしてきた原発立地地域は,世界を見渡しても他に見当たらない。
先の問いにもどろう。原発周辺の住宅地開発はなぜ可能なのか。まずは,60年前の計画図を見てみる(図2)。図は,1961年に東海村役場が作成した原子力開発の模式的地図だが,こんなことがわかる。①村全体が原子力開発の対象になっていること,②臨海部と国道6号沿いと,鉄道沿線に原子力施設が配置されていること,③住宅地はそれらの間に挟まれている。現在の問題状況は60年前まで遡れるのである。
この図は東海村が作成した図だが,村自身が,農村集落と農地を原子力施設で囲い込む計画を作成したとは到底考えられない。村でないとすれば,誰がつくったのだろうか。筆者は長い間,この問いに対する答えを探してきたがようやく,日本原子力産業会議(原産)だったことを明らかにした *。
当時の歴史を辿ってみる。1956年,東海村に日本原子力研究所(原研)が設置されることが決まった。原研設置が決まると,その3ヶ月後には都市計画が指定された。1.2万人の村に都市計画を指定することは,当時としてはきわめて異例であり,策定のスピードも早かった。その裏には,原研につづき,日本初の商業原発と関連核施設を村に設置する計画があった。これが,国と原産が「原子力センター」と呼んだものの中身である。
原子力センター建設に敗退した原子力都市計画法
原子力センターを具体的に構想したのは原産である。原産は,この構想を実現させるため,茨城県の都市計画行政に介入し,図2で描かれる開発計画に沿う都市計画を策定させた。原産が作成した「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」(設立趣意書)では,「官民一致して都市計画を用意した」とあけすけに書いている(図3)。
図3 東海原子力都市開発株式会社設立趣意書
こうして原発設置に向けた計画は整った。1959年,東海原発の設置が許可されると,三菱原子燃料,住友原子燃料,古河電工・富士電気が進出してきた。
同じ頃,原子力委員会では中曽根康弘委員長が主導して,原発周辺の開発規制を盛り込んだ原子力都市計画法の制定準備をしていた。しかし,開発攻勢は著しく法の制定は見送られた。代わって1965年,茨城県が県基本計画を策定して,原発周辺14箇所の公園と緑地を指定した。これらで原発の周辺開発をブロックするという狙いだった。しかし,恒久的な保全指定をしなかったため,住宅地をはじめ工業団地,原子力施設,港湾など多種多様な施設へと,ほぼ開発され尽くしてしまった。
開発を抑制するためには,開発規制をつくり適切に運用することである。これは当然のことだが,茨城県と東海村は,当初から原産の開発に積極的に協力し,自ら開発規制を解いていった。こうして,半世紀以上にわたって県と村はあらゆる開発を許した。この開発の蓄積は,原発の安全神話を地域へ広く深く浸透させるのに大いに貢献しただろう。
植民地思想にもとづくユートピア建設
東海村の過去半世紀は,このように著しく歪んだ開発の歴史だった。この開発を支えた思想はどんなものだったか。
設立趣意書にはこうある。「風光明媚な自然環境と大部分の住民が純農家であるこの地はいわば汚れを知らぬ白紙のままの処女地であり,近代科学の粋を集めた原子力センターの所在地にふさわしい。学問と文化の理想的模範都市を設営するには蓋し絶好の立地條件にあると言えよう。從って,官民一致して,豫め周到な都市計画を用意し,強力にその具体化を図る事が必要であろう」
原産の原子力開発は一言で言えば,植民地主義開発である。そのイデオロギーは3つ,ユートピア思想,原産の制御,原子力ムラの住民である。
まず,ユートピア思想についてみる。東海村は汚れのない純農村で,理想的な都市建設が期待できる地である,そこに,原産が近代科学の粋を集めた原子力工業を植え付ける,この事業をとおして,村は学問と文化の理想都市になるという思想である。
このイデオロギーは,旧動力炉・核燃料開発事業団(旧動燃,現・日本原子力研究開発機構)の科学展示館「アトムワールド」でより露骨に表現されていた(図4)。東海村の歴史を紹介するフロアで,村の人々の「未開の生活」を再現模型で示し,原子力によって近代都市へ発展したと解説していた。この展示を見た友人は差別的でおぞましい展示だったと語った。3.11後,展示はさすがにまずいと理解したようで翌2012年,施設は閉鎖された。
優越的待遇を受けた原子力ムラの住民
二つ目の開発イデオロギーが,原産が制御してユートピアを建設するという信念である。再び,設立趣意書を読む。
「いま,何等の積極的な対策もなく成行きに放置するならば,平和な東海村は忽ち策動と利権の巷と化し,徒らに地元の動揺と犠牲を増すばかりか,諸々の建設事業にも支障を来たし,当初の希望とは凡そ正反対の低俗極まる植民都市となってしまうだろう。われわれはこれを深く憂う次第である」「官民一致して,豫め周到な都市計画を用意し,強力にその具体化を図る事が必要であろう」
原産こそが,村に近代工業を植え付ける最初の権力者であり,村全体を俯瞰して原子力センターを建設する。原産は,そのために,茨城県の都市計画行政に介入,「官民一致して」原産に都合のよい都市計画を策定させた。その成果が図2である。
三つ目が,「東海村の原子力ムラ」のコミュニティである。「東海村の原子力ムラ」とは筆者が名づけたもので,ムラの構成員は進出企業とその従業員家族である。原産は,彼らのために,自身が設立した会社・東海原子力都市開発に集合住宅やガス設備,マーケットなどを整備させた。いずれも当時の東海村にはなかった近代的な施設と設備で,ムラの住民だけが独占的に利用できた。原産のユートピアは,原子力ムラの住民を地元住民と分離し,ムラ住民に優越的地位を与えるユートピアだった。
「原発都市」を歩んだ東海村の60年を振り返った。
地域の少なからぬ人々は,長年そこにありつづけた原発の姿を風景として見つめ,受容もしてきただろう。しかし,今後もそこで原発が稼働することを求めるのは正しい選択だろうか。山田村長は,原子力施設の近くでまだ危険な住宅地をつくるのかと問われて,既に村に住んでいる住民に失礼だと切り返したという。見るべきは歴史である。未来は,歴史から学び取らなければならない。
* 乾 康代 「原子力開発黎明期の原子力政策と都市計画 ―東海村における原子力センターの建設過程分析―」(日本建築学会計画系論文集 85 巻789号,2021年11月)で詳述している。
** 雑誌では紙幅の関係で図4は割愛されている。
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