原子力施設でサンドイッチ状態の住宅地 (東海村の原子力開発の歴史1)

脱原発とうかい塾会報「浜ぼうふう」79号(2021年秋)に寄稿した文章です。連載1回目で,東海村の原子力開発史を取り上げました。中学2年生が理解できるようにという注文でしたので,できるだけわかりやすい表現を心がけました。

『東海村史』に記載がなく,学校の先生も知らない東海村の原子力開発史を学ぶとともに,都市のあるべき未来を想定しながら都市の計画を考えるという未来志向の学問(=都市計画)の考え方にも触れてもらいたいと思います。



私は,東海村の原子力開発,住環境,農村について研究してきました。今回から,東海村の原子力開発の歴史や,原発問題をめぐって考えたことを書こうと思います。

まずは,なぜ東海村を研究してきたのかを説明します。初めて村を訪問したとき,私は,村のあるべき将来を想定しながら計画的に開発することを決める都市計画が,この村ではとてもおかしいことに気づきました。

都市計画では,環境リスクの大きい工場は住宅地から離すというのが基本中の基本ですが,村では,臨海部の原発や再処理施設のすぐ近くに住宅団地や住宅がつくられています。原子力施設は,臨海部だけでなく,もっとも奥の国道6号沿いにもあります。村の住宅地は,これらの原子力施設によっていわばサンドイッチ状態になっているのです。

こんな危険な原発の町は日本にも世界にもありません。東海村はなぜ,住民を原子力災害の危険にさらす,このような住宅地開発をすすめてきたのか,私はこの疑問を抱いて研究してきました。分かったことで,重大なことは次の2つです。

一つは,60数年前,日本原子力産業会議という国の原子力政策を担う民間事業者団体が,東海村全域を原子力で開発するという開発計画をつくり,この計画を実現させるために,茨城県の都市計画に介入して都市計画を歪めたということです。

二つ目に,都市計画の規制なく開発が自由に行えるように,当初,設定された規制も取り除いていったということです。現在の東海村は,こうした都市計画の枠組みの中でできあがりました。

山田村長は,村政3期目にあたり市街化調整区域(市街地の外側の農村地域)で宅地開発をすると言いました。しかし,宅地は不足していません。しかも人口は減少しています。なにより市街化調整区域は,開発を抑制すべき区域です。東海村では,原子力施設にもっとも近い地区なので,開発は絶対にしてはいけないところです。開発すべきではない条件がこれだけそろっているにもかかわらず,危険な住宅地をなおつくろうとしているのです。

新聞やテレビでは,ヘリで海から捉えた原発とその後に広がる市街地という絵や,村役場の屋上から捉えた家の屋根並みとその向こうに立つ原発という絵が紹介されます(写真)。地上で生活していては見えない東海村の異常な住宅地の様子が,この写真が可視化してくれます。


写真 左は東海第二原発,右は東海原発(2021年10月,阿部功志氏撮影)


次回は,なぜ,山田村長はこんな危険な宅地開発をすすめようとするのか,そもそも,なぜ,こんな住宅地開発が可能になったのか,をお話ししたいと思います。



東海村の原子力開発の詳しい事情は下の論文にあります。

原子力開発黎明期の原子力政策と都市計画 ー東海村における原子力センターの建設過程分析ー,日本建築学会計画系論文集,2021年11月

東海村の住宅地はどのようにしてサンドイッチ型密集地になったのか(東海村の原子力開発の歴史 2),2021年2月12日

東海村の原子力開発に取り入れられた植民地支配(東海村の原子力開発の歴史3),2021年5月21日



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