奥会津の自然と文化に触れた旅

2017年度前半のNHK連続テレビ小説「ひよっこ」は,「奥茨城村」を舞台に始まった(架空の村)。茨城県に住む私としては,この「奥茨城」という名前は腑に落ちなかった。

茨城県は7割が平地で,山は,福島県白河市南部から茨城県,栃木県の県境付近を南下し筑波山に至る八溝山地だけで,山間地の集落が少ない。谷筋を奥へ入っていってもすぐに隣の県に出るので奥深さもない。 私は,茨城の奥を観念したことはあまりない。茨城の地形と文化からして,茨城の多くの人も同じように思っているのではないだろうか。

この秋,私は,その奥深さを深く感じる旅をした。3.11後,福島県浜通りから中通りに避難されているAさん夫妻の誘いを受けて,福島県の奥会津をめぐった。東海村長選の慰労のお誘いだったが,そのおかげで久しぶりの再会を喜びあうことができた。

「奥会津」は,会津地方の南西部の柳津町,三島町,金山町,昭和村,只見町,檜枝岐村,南会津町の7町村を指している(図1)。「南会津」という地方名もある。「南会津」は,奥会津南部の3町村(南会津町、只見町、檜枝岐村)と下郷町を加えた4町村を指す。南会津の4町村では,観光資源として「会津高原」という地方名も使われている。

図1 福島県と奥会津(オレンジ色の枠で囲った7町村


山間地の奥会津は日本屈指の豪雪地である。山は雪崩で削られた雪食地形を形づくり,ブナ林や針葉樹林がモザイク状に分布するモザイク植生ができあがる。秋の紅葉期にはモザイク状の植生がくっきりと浮かび上がる。人々は谷筋を流れ下る川に沿ってできる線状の平地に集落を形成し,文化と歴史を育んできた。

いま圧倒的多数の人々が都市に住み,エネルギーを大量につかって環境をコントロールする便利さと快適さを享受している。山を知らない現代人は環境が厳しい山間地では,生活がしにくく文化は乏しいだろうと観念している。しかし,奥会津を旅すればそれは完全に間違いで,山にこそ豊かな文化があるということに気づかされる。

南会津町の常楽院では,山間の地で密かに信仰を守っていたのかと驚かされたが,マリア観音像が祀られている。柳津町には日本三虚空蔵の一つ,福満虚空蔵尊,檜枝岐村には檜枝岐歌舞伎(県指定重要無形民俗文化財)がある。産業には,只見町には岩塩の製造があったし,昭和村には縄文時代から衣類につかわれていた繊維のからむし織(国指定伝統的工芸品)がある。そばが生産されてどこでも美味しいそば料理がいただける。戊辰戦争で越後長岡藩の東軍の中心にあって只見の地で倒れた河井継之助記念館(只見町)が会津の歴史を伝える。

建築物では,前沢曲家集落(文禄年間(1592~1595年)形成,伝統的建造物群保存地区)(写真1),南会津町の南泉寺楼門(1794年建立)(写真2),檜枝岐歌舞伎舞台(明治30年ごろ再建,国指定重要有形民俗文化財)(写真3),昭和村の交流・観光拠点施設「喰丸小」(1937年築の2階建て木造校舎,1980年廃校,2015年改修)(写真4)がある。


写真1 前沢曲屋集落(下縁から座敷を見たところ,文禄年間,南会津町)

写真2 南禅寺楼門(1794年,南会津町) 

写真3 檜枝岐歌舞伎舞台(明治26年焼失,明治30年頃再建,檜枝岐村

写真4 交流・観光拠点施設「喰丸小」(1937年,昭和村)


山間地の集落はいま人口の減少が著しいが,歴史を振り返れば,人々が山から下りてきて大河川の平野に定住し大都市をつくるようになったのは,近世以後のこと。わずか300〜400年前のことである。人々の定住の場は長く山にあった。近世まで山は賑やかなところだったのである。

富山さんは次のように書いている *。

昔,いかに山々が栄えていたかは,例えば文化の中心地が既に十分下流平野に下りてきた江戸末期に,木地屋の数だけで5万ー6万人いたということでもわかる。木地屋とは,山中で,ろくろをつかってお椀やお盆やお玉杓子を作る職人である。

人々が低地で生活するようになっても, 高度成長期まではまだ賑やかな山間の生活があった。今は山のかつての賑やかさを思い浮かべることはすっかり難しくなってしまったが,旅は,そこに確かに豊かな生活文化があったことを教えてくれる。下流に広がる広大な都市の生活は,上流の自然といくつもの集落の人々の生産によって支えられていることも想像できる。

奥会津の旅は紅葉にぎりぎり間に合った。山間の道路を走りながら紅葉を楽しみつつ,都市の奥を知る旅をした。



*  富山和子『日本の米 環境と文化はかく作られた』 pp.85-86,中公新書,1993

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