中村彝のアトリエ その2 小住宅の空間構成
前回は,この住宅の佇まいの美しさについて,平面構成と屋根伏せを関連づけて述べた *。今回は,この住宅の2人の住民,彝ときいが使った空間についてさらに解析する。
新宿区立「中村彝アトリエ記念館」のパンフレットによると,現在,この住宅敷地には南側と西側に道路がついていて,敷地へは南から入る(図1)**。創建時も南から入ったようだ。南から入ると,正面中央の,観音開きの白いサッシの大きな窓が近づいてくる。友人なら,住宅東側面の小さな玄関ではなく,彝の居間の窓から顔を覗かせて,「やあ,元気か」と言いながら入ってきたのではないか。彝の居間の窓は縁側のように使われたような気がする。
図1 彝の住宅の敷地配置図 (新宿区立中村彝アトリエ記念館パンフレット **)
アトリエは,彝の仕事場であり,その意味で私的な場所だが,玄関がついていて訪問客を迎え入れるという公的な空間としての機能ももたされている。その南隣の彝の居間は,就寝,食事,療養のための私的空間である。これら2室は,彝の専用空間である。この2室には,前述のように,玄関と居間の大きな窓がついていて,外とつながっている。
これに対する,この住宅の西側に配置されている居室(3畳)と台所の2室は,きいの専用空間である。きいの専用空間は,彝のそれに比べると最小限の広さにとどめられ,窓もごく小さくつくられている。外とのつながりは薄い(写真1)。
写真1 岡崎きいの部屋
このように,この小住宅は,彝の専用空間ときいの専用空間という,対照的な2つのブロックで構成されていて,それぞれこの住宅の表空間と裏空間になっている。
戦前の都市住宅では,家族の部屋に対して女中の部屋を,このように配置や面積などで身分制的な違いを表現することは,住宅計画のいわば慣わしだった。
この住宅も,当時の住宅の平面計画の慣わしに従ってつくられたが,きいは,彝の女中ではない。きいは,水戸家御殿女中から土佐山内公の側室となった女性で,不治の病の彝を最後まで看護し続け,晩年の作品「老母像」のモデルとなった人である。彝にとってきいとの出会いは,彝の晩年の作品にいっそう輝きをもたらすことになったと評された人だった **。「ほんの1週間ばかりのつもりで,彝の面倒をみるつもりで来たが,看護婦が沢山代わったが,私はどうしてもこのまゝにして帰れず死水を取ることになった」と語っている ***。
図1では便所の位置がはっきりしない。茨城県近代美術館のパンフレットにも,その位置は明示されていない。住宅図面を通して,どのような思想で設計されたのか,そこで人はどのように生活したのかを知り,歴史的背景や社会事情などと総合して,その住宅や家族を理解することができる。便所の位置もきちんと示してほしい。
便所は実際のところ,どこに配置されていたのだろう。この答えについて考えるのに,この住宅のブロック構成を前提に置くと,その位置が見えてくる。
普通,便所は,汲み取りの関係や心理的な配慮などから住宅の端に置かれる。アトリエで制作中の彝の写真を見ると,アトリエの北にも東壁面にもない。西壁面も多分ない。
住宅の西端とすれば,台所付近だが,台所に便所を隣接させるのは心理的に抵抗がある。実際のところ,筆者は,台所と便所を隣接させた住宅平面を見たことがない。だいたい,この住宅の台所は裏空間の一番奥である。客人には見せたくないところである。客人の利用を考えても台所付近は絶対ない。
彝の居室の東壁面も考えられるが,ここは彝の専用空間だから,きいが利用しにくい。客人も利用しにくいだろう。
とすれば,残るのは一つである。この住宅の2つのブロックの結節位置である(写真2の緑枠)。ここは,彝はもちろん,きいにも客人にも一番気兼ねの少ない位置である。筆者のこの推察は合っているだろうか ****。
写真2 便所の筆者の推察位置
と,ここまで書いた所で,彝のアトリエの平面図を見つけた ****。そこには,アトリエ創建時のものを手書きで写したとする図があり,筆者が想定した位置に便所が描かれている。合ったと小躍りしたが,残念なことに,図の引用元と作成者,作成年が明記されていない。根拠とするには信頼性が足らない。
このブログ記事には,より確かな原図が添付されていた。その図面は,「大正期に地籍簿へ記録されたとみられる彝アトリエの建坪と採寸図をベースに,建築家の鈴木正治様が再現されたとみられる1923年以降のアトリエ設計図」だという。「アトリエ設計図」の経緯説明と建物平面の形から彝のアトリエと判断してよさそうだ。その図にも,やはり筆者が想定した位置に便所が描かれていた。ただし,地積簿へ記録されたとされる「採寸図」と,アトリエ設計図には,便所のサイズが異なっている(採寸図では奥行き半間,アトリエ設計図では1間)。奥行き半間の便所は,現在の公衆のトイレブースサイズである。水戸のアトリエにも,名称はないが,確かに同じ位置に奥行き半間の室がある。
彝は,この住宅できいの世話を受けながら制作した。日々,どのように過ごしたのだろう。きいは,彝の世話と看護に加え晩年,彝のモデルになった。ここで,どんな生活をしたのだろう。(つづく)*****
* 中村彝のアトリエ,須和間の夕日,2022年10月30日
**新宿区立中村彝アトリエ記念館,中村彝アトリエ記念館の施設案内
*** 東京朝日新聞,大正13年12月25日
**** 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin):中村彝が建てた初期型アトリエの姿。2010年11月3日。
***** 中村彝のアトリエ その3 住宅を美しく見せる展示,須和間の夕日,2022年11月22日
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