原子力開発が終わっても開発はつづく(東海村の原子力開発の歴史5)


脱原発とうかい塾会報『浜ぼうふう』第83号,2022年秋号,の記事です。



村は,原子力開発でどのように変化していったでしょうか。地目別面積の推移から,村の土地利用の変化状況を見てみます(図1)


 図1 地目別面積の推移(㎢)             資料:村税務課                              

                          

原研設置が決まる直前1955年,村の耕地率は49%(畑36%,田13%),耕地面積はピークに達していました。この数字は,東海村の後につづいた全国の原発立地地域のそれと比べてもとても高く,東海村はどこよりも農業の盛んな村でした。

しかし,その翌年,原研の設置が決まると開発がはじまり,1959年,東海原発の設置許可を契機に畑は大きく減少し始め,つづいて山林も減少していきました。宅地化された畑や山林は,原研,原子燃料公社,原発,核燃料加工工場,これら事業者の給与住宅団地などに使われました。

東海村の原子力開発は1950年代後半から1970年代までのわずか20年余りでしたが,その後も開発はつづきました。その結果,1955年から2021年までの66年間に,畑は当初の53%,山林は50%まで減ってしまいました。

この間,村にはいくつもの住宅地ができました。目立ったものでは,まず原子力事業者の給与住宅団地,つづいて1970年代に2つの戸建て住宅団地,そして村の公共事業として始められた土地区画整理があります。区画整理事業とは,計画的に市街地をつくるために,区画を整理し直して市街地に必要な道路や公園などの公共用地を生み出しつつ,整然とした市街地をつくる事業です。

村のこの事業は実に広大で,これが完了すれば全体で194haになります。供給される宅地全てに戸建て住宅が建てられれば最大で3万人弱が住むことになる規模で,都市が一つできあがるほどの規模なのです。そのような事業が進行中にもかかわらず,山田村長は,去年9月,「本村の未来を見据えた新たな定住促進策を戦略的に進める」と述べて,さらに宅地開発をする方針を発表しました。その狙いは人口増ですが,この戦略は正しいでしょうか。

住宅を買おうとするのは親族世帯です。しかし,いま日本全体でも茨城県でもこの親族世帯数が減少しています。宅地ニーズは今後,どんどん減っていくのです。当初描いた賑やかな市街地にはならず,電気水道つきのペンペン草畑が広がるでしょう。

大失敗の例を一つ紹介します。水戸市郊外の水戸ニュータウン(135ha)は,茨城県住宅供給公社がバブル期に計画しました。すでに住宅需要の減少が見えていたにもかかわらず,公社は計画を見直さないまま事業をすすめました。案の定,分譲はすすまず2010年,公社は破産し,団地の大半がメガソーラーになりました(図2)

図2 大半がメガソーラーになった水戸ニュータウン  (Google Earth)


東海村の原子力開発史は,原発立地地域に求められる厳しい開発規制を徹底して緩めつづけ,危険な住宅地を拡大してきた歴史であり,安全に住まう村民の権利を侵害しつづけてきた歴史でした。いま,原発へのミサイル攻撃リスクが高まり,安全への脅威はさらに大きくなっています。住の安全を取り戻すためには原発のない村を目指さなければならず,同時に荒廃した農と自然を回復する政策転換が必要です。次回から,原発に対する村民意識をテーマに東海村の問題を考えていきます。



原子力施設でサンドイッチ状態の住宅地 (東海村の原子力開発の歴史1),2021年12月1日

東海村の住宅地はどのようにしてサンドイッチ型密集地になったのか(東海村の原子力開発の歴史 2),2022年2月12日

東海村の原子力開発に取り入れられた植民地支配(東海村の原子力開発の歴史3),2022年5月21日

密かにすすめられた東海原発の計画(東海村の原子力開発の歴史4),2022年8月14日



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