若狭の原発を見て,最近思っていること

前の記事から2ヶ月近く空いている。何も書けなくなっていた。素人なのに,『日本の科学者』(日本科学者会議)の編集委員長になってしまい,多くの時間がこちらに振り向けられ,他のことを考えられないようになってしまったからである。

今日は,朝起きて新聞もとりにいかず,すぐに校正に取りかかった。お昼前に朝食をとり,届いていた「西山夘三記念 すまいまちづくり文庫レター」秋号をパラパラとめくった。3月,住田昌二先生が亡くなられて,その追悼特集が掲載されていた。院生の時,授業を受けた。先生は,まもなくして福山市立女子短大へいかれたので,薫陶を受けたと言えるほどではないけれど,先生の授業は強烈な印象がある。事前に十分に勉強もせずに受けていたら,ちゃんと落とされた。

春,その西山文庫から出版助成をいただいたので,こっちは,とにかく一生懸命考えている。『原子力と都市計画』のようなタイトルを頭に描いている。章の構成はほぼ出来上がったが,章と章,章の中の間の隙間を埋める調査をしている。

科学者会議の会員になったので,原発関係のシンポジウムやらの案内がいろいろ来る。8月には,若狭の敦賀,美浜,もんじゅの立地環境をこの目で確認したいと,福井支部のシンポ「原発のない社会づくりのための検証と展望」に参加した。今週末は,神奈川支部のシンポは,山崎正勝さんの講演「『原爆の父』オッペンハイマー その”栄光と没落”から考える」を聞きに行く。横浜だから遠くてどうするか悩んだが,日本への原発導入のそもそもの部分を,ちゃんと理解しなくてはと考え,出かけることにした。

砂浜海岸ともんじゅ(8月24日撮影)


都市計画では,人物に焦点を当てて論じることは少ないが,私は,日本に原発を導入しそれを広めた政治家,都市計画学者に焦点を当てたいと考えている。現在,念頭に置いているのは,中曽根康弘と松井達夫。

二人にはもうお目にかかれないから,一生懸命資料を探すが,まともな資料がない。政治家は,盛った話しかしないことはわかっている。しかし,不思議なことに,中曽根事務所が,国会図書館に寄贈した資料の中に原発導入にかかわった初期の資料が何もない。

松井達夫は,東海村だけでなく,福井県美浜町も,福島県双葉地区にもかかわっているのに何も書いていない。インタビューでも何も語っていない。これは,インタビュアが悪い。松井が原子力開発に深くかかわったことを知らないからか,あるいは知っていても都市計画学に原子力開発は関係がないと決めつけたか,そもそも全然興味がなかったか,松井に質問をしていないから,何も聞き出せていない。

箝口令でもあるのか? それほどに個人にしぼって論じるのが難しいテーマである。最後の章には絶対,東海元村長,村上達也さんにインタビューする,と決めている。

さて,原発立地は,東海村から全国へと展開した。それは,平場農村から過疎漁村への展開であり,首都圏の周縁から地方圏の周縁へという展開だった。それが本当によくわかる場所が若狭である。

水上勉は,若狭,大飯町の出身である。彼は,『若狭がたり:わが「原発」撰抄』で,大島半島の先の山をけずって立っている大飯原発について,下のように描いている。


原子力発電所は,河村集落のうら側にあった。半島は,内陸側からみると,牛が寝たように見えている。その先端の方に,ふたつ小山がもりあがってちょうど,その小山のうらから,牛の首にあたる方角へ向けて,外海に面した岩盤地をえぐって原発はつくられている。もともとそこに,入江があって,低い谷がかくれていた様子だが,そんな所を適地とみて,工事されたのだろう。外海だから,高波のよせる岩肌を背に,白い巨大なドームがふたつならんで建つけしきは,先程まで異郷で死んだ和尚たちの墓をさがしていた村の閑雅さとは正反対で,とつぜん化け物が立ちはだかったようで息をつめた。


関西電力は,地形と周辺集落をよく調べたようだ。若狭の原発はどこも本当に,半島の先の入り組んだようなところが選ばれている。

この数日,戦中戦後に書かれた農村社会論を読んでいる。原産の資料を見ると,原産はどうも,農村論を勉強していた節がある。原子力開発にかかわったのは,都市計画研究者だけではない,保守的な農村研究者もいたはずだ,最近,つよくそう思っている。

須和間の夕日

乾 康代のブログ

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