中曽根康弘,近藤鶴代,松井達夫,東海村
『原子力と都市計画』(仮)の4章「原子炉立地審査指針とグリーンベルト策」(仮)の,不明部分を書き上げるために,国会図書館に行ってきた。
この日の目的は,このテーマに関連して,努力してきた政治家と都市計画家の資料を見つけること。対象者は,中曽根康弘(1918-2019),近藤鶴代(1901-1970),松井達夫(1904- 1997)。数少ない資料をなんとか駆使して,この3人の仕事を形にしたいと思っている。
3人の関係は,次のように,中曽根を真ん中にしてつながっている。
まずは,真ん中の中曽根について。中曽根は,原子力推進に関心をもつようになった理由として敗戦前後の2つの出来事をあげる 。一つは,広島への原爆投下で湧き上がった巨大な白い雲を高松から見たこと,もう一つは,GHQが,原爆に関係しているといって,仁科芳雄のサイクロトロンを品川沖に放擲したことを新聞報道で知り非常な怒りを覚えたことである。中曽根は,「やはり日本は科学技術で国を興さなくてはいけないという思いを強くしました」とくくる。
中曽根と松井は,グリーンベルトでつながっている。日本のグリーンベルトは首都圏整備法(1956年)に取り入れられたが,それをまとめたのが都市計画官僚だった松井で,成立なった首都圏整備法をお手本にして,中曽根は原子力都市計画法を構想した。
中曽根と近藤は,同じ原子力委員長となった政治家という点でつながっている。単に同じ職についたというだけでなく(それぞれ1959,1962年),中曽根は,委員長時代に原子力都市計画法を成立させようとしたが(1959年),実現させられなかった。悔しかったに違いない。中曽根は,その法案の理念,目的を受けついだ計画の実現を近藤に託していたのである。
近藤はその名前が示すように女性政治家である。中山マサに次いで,日本の戦後政治で女性で大臣になった2人目の人である。近藤は,原子力委員に就任したとき,中曽根から「重要なポストで,ご苦労の多いことと思いますが,つねに前向きの姿勢でがんばってください。私も,力の及ぶかぎり協力しますから」という激励の言葉をもらっている*。近藤は,中曽根より1回り以上も年長の政治家である。原子力は何も知らない政治家だった。
近藤は,多分,中曽根の思いを引き受け,おそらく中曽根の色々な助けも借りただろう。大臣になるやその2ヶ月後には東海村を視察し,原子力施設地帯整備部会(以下,部会)を設置した。部会設置の目的は,東海村ですすんでいた原子力開発に対する都市計画規制の答申を原子力委員長に出させることだった。
部会は,2つの小委員会でそれぞれ調査研究がおこなわれ,2年をかけて,1965年,答申が委員長に提出された。答申をまとめたのが,早稲田大学教授で,都市計画小委員会主査の松井達夫である。答申は,東海村に原発2km圏にグリーンベルトを設置するというものだった。
松井は都市計画官僚時代に首都圏整備法(1956年)をまとめていた。早稲田大学にうつって,首都圏整備法の中心手法に置いたグリーンベルトを再び,東海村の原子力開発に適用としたのである。
委員長は,近藤からすでに愛知揆一に代わっていた。時は高度経済成長さなか,首都圏整備法のグリーンベルトは指定できなかった。同様に,東海村にグリーンベルトを,という松井の構想も時すでに遅かった。東海村にグリーンベルトが設置されることはなく,村は,原発2基や再処理工場を市街地が取り囲む異常な都市に変質した。
話をもとに戻そう。この日の国会図書館の資料探しでは,中曽根康弘関係が中心となった。
中曽根事務所が国会図書館に寄贈した「中曽根康弘関係資料(寄贈)」は,4階の憲政資料室にあった。寄贈資料は棚で44mあるという。私は,原子力関係の新聞,雑誌記事のスクラップ10冊ほどを請求した。資料請求用紙には,調査目的を具体的に書くことを求められた。こういうのは初めてだった。この資料請求用紙の記述が,国会図書館の調査資料として活用されるのだろう。
スクラップブックは一冊ずづ,太いマチのある「国会図書館」の名前入りの白い厚手の封筒に入っていて,ワゴンに入れて引き渡された。
私は,スクラップブックのページを繰った。半世紀前の新聞紙は茶色く変色し,紙も硬くなっていて,もし折り目をつけたりしたら簡単に折り目から切れてしまいそうだった。読んだスクラップブックを白い封筒に入れてテーブルに重ね置きしていたら,スタッフが飛んできて,資料が傷むから封筒は縦置きにするようにと指示された。
中曽根が引いたのだろう。赤線があちこちに引いてあった。『原発都市』や論文などで書いていた内容(原子力都市計画法の国会上程予定時期)に間違いのあることを発見した。引用した論文がまちがっていたのである(以前から,なんだかおかしいなと思っていたが)。今回,読んだ資料,集めた資料はいずれ4章に反映させる。
さて,中曽根資料のスクラップブックで,以下のような切り抜きを見つけた。
東海村の住民で,原研のすぐ近くで農業を営む女性が,原研の実験炉JRR-1がまもなく初臨界を迎えようとするときの家族の会話をもとにした投書である。戦争を生き抜いてきた老母の不安を引用しつつ,新しい科学技術の必要を理解しながらも国策先行の不安を覚える女性の思いがつづられている。
「原子力の村から農婦のお願い」,東海村真崎724 塙きく代(45),(「ひととき」朝日新聞,1957年8月16日)
「おばあちゃん,もうすぐ原子炉が動き出すんだってよ」「おう,そうかい,そうするとまた戦争中にたくさん人を殺した原子爆弾も作るのかい?」「そんなもの作らないよ,電気をおこしたり病気を治したり,そのほかいろいろためになるものを作るんだよ」「おばあちゃんはもう先がないから構わないけど,せがれや孫たちがどんな難儀をすることやら」
中学一年になる孫の説明では,原子力すなわち原子爆弾と思い込んでいることし80歳になるおばあさんの不安は消されそうもない。そばで聞いていた私も,講演や映画できいたり見たりしていたはずなのに,ほんとうに人類の平和と幸福にのみ利用されるのだろうか。取越苦労と打ち消しながらも,心の片すみをよぎる不安は老母と同じ思いです。
目の前に高い鉄塔がたち,四階建の見たこともなりアパートが建ってみれば,仕事の忙しさと生活に追われ我関せずと思ってはいたものの,これからさき百姓がつづけられるのだろうか,まだ都市計画も発表されず,どんな構想のもとに進められているのか,私たちには五里霧中とはこのことでしょうか。何はともあれ,こうした国家的大事業には多かれ少なかれなんらかの犠牲はまぬかれないとしても,あちらこちらで見受けられる流血の惨事や,ごたごたの起こらないよう,天下り式でなしに私たちの納得のゆくような方法を取っていただきたいのです。そして私たちの納得することによって,多くの人びとの平和と幸福がもたらされるならば,私たちの生命である農地を手放さなければならない事態になっても,やむを得ないと思っております。
間違っても東西両陣営の冷たい対立の対象物となることのないよう,近づく火入れ式を前にして原子力村の農婦の立場から筆を取りました。
塙さんの投書から70年近い時間の間に,原子力の村は,想像もつかなかったところまできた。
村には知らぬ間に東海原発ができ,さらに2基目はもっと大型でできた。再処理工場もでき,その再処理工場での火災爆発事故,JCO臨界事故,3.11で福島第一原発で過酷事故が発生した。塙さんが書いた「私たちの命である農地」は,いまや後継する人がいなくなり,村の農業は壊滅寸前まで来てしまった。それでも,人類の平和のためなら「命の農地を手放してもやむを得ない」など,言える余地はどこにもないだろう。
次の半世紀など想像する必要もない。原発はもうやめるときだ。
* 中村純介『薊(あざみ)の記:近藤鶴代伝』,ぺりかん社,1974
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