能登半島地震の被災地を巡る


能登半島の被災地はまだ何も進んでいないというのに,3月16日,北陸新幹線が華々しく全線開業した。6月4日,私は,常磐線の特急と北陸新幹線で4時間の快適な旅をして金沢に来た。

地震からすでに半年すぎていたが,賑やかな金沢の市街地を抜けるとすぐに,地震の揺れの凄まじさを物語る光景に出くわした。

市内沿岸部の内灘町は深刻な液状化被害だった。住宅は傾き道路は波打っている。能登半島のあちこちで,大きな瓦屋根が地面に伏したような全壊の住宅や寺院を見た。中にいた人は無事に逃げられただろうか。道路に飛び出した瓦礫は片付けられたが,敷地内の瓦礫はどこも放置されたままである。珠洲市役所ではいまだトイレが使えず,不便な生活を強いられていた。石川県の災害関連死を含む死者は300人にのぼった。

大阪万博や大阪の巨大再開発などへ向けられた人や資材を被災者の生活再建に投入する,信念ある政治が欠如している。

能登半島には志賀原発がある。かつては,珠洲原発計画(珠洲市高屋町,寺家町)があり,また,ほとんど知られていないが,日本原子力産業会議(原産)が1970年に作成した『原子力発電所と地域社会』の原発計画地の一覧表には,福来町(現・志賀町福来)の名前もある(表1)。住民の反対運動がなければ,能登半島は,若狭湾のように原発が集中立地する半島になっていたかもしれない。


表1 原産が作成した全国の原発設置計画


なぜ,能登半島が狙われたか。若狭湾と同様,能登半島の海岸線には山が迫っている。そこには,農地が十分に取れない過疎問題の深刻な漁村がある。そんな漁村が,原発事業者には一番のターゲットとされたのである。若狭出身の水上勉は,『若狭がたり:わが「原発」撰抄』で,次のように書いた。


「原子力発電所は,河村集落のうら側にあった。半島は,内陸側からみると,牛が寝たように見えている。その先端の方に,ふたつ小山がもりあがってちょうど,その小山のうらから,牛の首にあたる方角へ向けて,外海に面した岩盤地をえぐって原発はつくられている。もともとそこに,入江があって,低い谷がかくれていた様子だが,そんな所を適地とみて,工事されたのだろう」。


原発事業者には,能登半島も若狭と同様に好ましい環境だった。

志賀原発を訪れた(図1)。半島で最大の震度7の揺れに襲われたところだが,10年以上止まっていたため過酷事故は免れた。もし,3.11が起こらず,稼働中だったら,どんな事態になっていただろう。

図1 志賀原発(海側からみた)


次に,珠洲市高屋町に来た。関西電力が珠洲原発を計画したところで,1986年,チェルノブイリ原発事故が起こったにもかかわらず,市議会は誘致決議をした。しかし,2003年,関電ほか電力会社3社は珠洲原発計画を凍結した。

高屋町は震源に近く,地震で大規模な斜面崩壊が起きて道路が各所で寸断され(図2),反対運動の中心的存在だった住職・塚本真如さんの圓龍寺は全壊した(図3)

図2 珠洲市高屋町の大規模な斜面崩壊


図3 全壊した圓龍寺


もし,住民の反対を押し切って珠洲原発が建設され,稼働していたら,半島は? そして,日本はどうなっていただろう。



『建築とまちづくり』(新建築家技術者集団),2024年7/8月号

須和間の夕日

乾 康代のブログ

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