日本原子力産業会議が描いた東海村の「原子力センター」

62年前,東海村の将来像を最初に,具体的に描いたのは,東海村でもない,茨城県でもない。日本原子力産業会議(原産,現・日本原子力産業協会)であった。そして,東海村は,原産が描いた通りに開発されていった。5月11日につづく論考である。


東海原子力都市開発株式会社とは何者か

1956年4月,日本原子力研究所(原研)は,東海村に設置が決まった。早速,施設の配置計画がつくられ,8月には早々と起工式があげられた。その原研の配置計画図は,柴田秀利文書の中にあった東海原子力都市開発株式会社設立趣意書(1957年)で見ることができる *。

あらためて,東海原子力都市開発株式会社(東海都市開発)について確認する。東海都市開発とは,東海村の「原子力センター」建設を担った「会社」である。設立趣意書の記載内容と,趣意書が作成された1957年後の出来事をまとめると次のようになる。

東海都市開発は,原研設置が決定するといち早く東海村内の土地14か所を手中にあつめ,集中管理を始めた(1957年までに)。一方で,9電力会社が出資する原子力発電事業者・日本原子力発電(原電)が設立され(1957年9月),東海原発の設置が許可された(1959年12月)。東海都市開発が管理していた村内の事業所用地は,原発設置が決まると,住友や三菱などに売買され,事業所建設が始まった。

この「会社」のことがわかるのはここまでである。会社登記は水戸でも東京でもなされず,「会社」住所も丸の内の狭い建築設計事務所に表記だけ,会社四季報など当時の会社情報誌類にも当然名前は出てこない。この「会社」が集めた村内の土地は所有権ではなく地上権で,土地の権利登記もなされなかったから登記簿にも現れてこない。徹底して,「会社」の痕跡が残らないようにしている,ように見える。当然のことだが,これまでのところ関連書籍類でこの会社について言及しているものも見つかっていない。

東海都市開発株式会社設立趣意書が,正力の懐刀・柴田秀利が所有する文書の中にあったこと,その柴田自身,参与・経済委員として原産役員に名を連ねていたことから ** ,この「会社」は,初代原子力委員長・正力松太郎につながっているか,正力の提唱で設立された原産とつながっていることが推察される。


2つの原研施設配置図の比較

東海都市開発と原産とのつながりを,原産が発行する原子力産業新聞で調べてみることにした。

原子力産業新聞は,1955年9月25日に創刊された。原産の設立は,1956年3月1日だから,原産設立までの半年間は,原子力平和利用調査会の名前で発行されていた。

この新聞に東海都市開発の名前が出てくることを期待したが,残念ながら見つけることはできなかった。代わりに,1957年3月25日の新聞に,「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」中の原研の施設配置図(図1)とそっくりの「日本原子力研究所一般配置図」が見つかった(図2)。原研の記事に付されていた。街区構成や施設配置の基本部分が同じであることから,2つの図の出処は同じとみなせる。いくつかの違いは,この図がこの時点でまだ作成途上にあり,作成された時による違いであると考えられた。


図1 原研施設配置図(東海原子力都市開発株式会社設立趣意書,1957年)  

    

図2 日本原子力研究所一般配置図(原子力産業新聞,1957年3月25日) 


東海原子力都市開発設立趣意書中の図と並べてみて,次の2点がわかった。第一に,会社設立趣意書の図が先で,日本原子力研究所一般配置図が後に描かれたということである。これまで会社設立趣意書は1957年に作成されたことまではわかっていたが,これで,設立趣意書の作成時期を1957年3月以前と限定することができた。

設立趣意書の図が先で新聞の図が後,と判断した理由は,一つに,原研サイト入り口から国道6号線に連結する計画の原研道路(図中「至石神」と記載される道路)が,点線(図1)から実線(図2)へ描き直されたことにある。これは,計画道路がより具体的になったことを示す。二つ目に,原研サイト正面入り口から東に伸びる道路から南側の街区は一つしかなかったが(図1),新たに街区道路が引かれて5つの新しい街区が現れた(図2)ことである。

第二にわかったことは,2つの図の比較から,1957年冬から同年3月にかけて,原研道路の計画と,サイト内の街区割と施設配置の計画が急ピッチですすんだことである。

この図が描かれていたとき,5月開催予定の「日米原子力産業展覧会」が迫っており,ここで発表する「東海村の立体図板」の完成が急がれていたという事情があった。


原子力センターを可視化した「東海村の立体図板」

「日米原子力産業展覧会」は,1957年5月,日米両原子力産業会議と読売新聞社の主催で東京と大阪で開催された。原子力産業新聞は「東海村の将来図」の小見出しをつけ,原産が「将来の東海村の立体的図板」を出品することを報じた(1957年4月25日)。

記事には,次のような説明がつけられている。「昨年までは知る人も少なかった鹿島灘沿いの一農村,その海岸の白砂青松地帯がいま正規の脚光を浴びて,近く日本における平和利用最初の第三の火が点ぜられ,やがては日本の原子力センターとなる東海村の将来図である」。

「東海村の立体的図板」は,写真も図もないのでどのようなものかわからないが,狙いは,東海村の立体的「原子力センター」の展示である。「立体的図板」というから,図板に模型の建物を載せた都市模型のようなものと想像される。

立体的図板を作成するには,地図情報に加えて,用地情報とその用地の用途情報が必要である。東海都市開発が確保していた村内14か所の事業用地は,決して無計画に確保されたのではなく,住友や三菱など誘致企業,原研や原電の給与住宅団地に割り当てるべく計画的に確保され,立体的図板はそれにもとづいて作成されたと想定される。実際に,現在の事業所と給与住宅団地の立地状況は,東海都市開発が確保していた1か所を除く13か所の土地の配置と一致している *** 。展示された立体的図板は,現在の東海村とほとんど変わらない空間構成を示していただろう。

この立体的図板は,次の2つの点において重要である。一つは,原研設置決定からわずか1年足らずのうちに,原産によって東海村の具体的将来像が描かれていた事実が明確になったことである。

二つ目に,これが村ではなく,県でもなく,原産によって作成,発表されたという事実である。村の将来像は,原産によって描かれたのである。そして,原産が描いた通りに,東海村は開発されていったことが明らかになった。

残された課題は3つある。①東海都市開発とは何者か,なお明確にできなかった。柴田も関係して,原産内または傘下に東海都市開発が組織されたのだろうという推測がつくが,そこまでである。②そして最大の課題,東海村の将来像を描いたのは,原産の誰なのか,どこなのか。そして,③東海村の立体的図板は具体的にどんな東海村を描いていたか,である。


東海村も協力した「原子力センター」建設

村は,事業用地の提供には協力的だったという。驚くのは,村長自らが,施設の立地予定地の所有者を口説いて提供させたという証言である。「将来,日立製作所のような大規模工業地帯になり,地域の雇用などの大きなメリットになるので,是非,土地を提供してください」と言って回ったという**** 。

この村側の証言を受けるように,東海都市開発は「幸に当社は大多数の地元有力者の参加を得たので,事業上必要とする土地の絶対量は広凡囲に獲得しうる強力な基盤を」もっていると記述している(設立趣意書)。

東海都市開発は,原産が描いた東海村の開発計画にもとづいて,村長など「大多数の地元有力者」の協力を引き出しながら,土地所有者から用地確保をすすめていった。


* 初代原子力委員長・正力松太郎の懐刀ともいわれた柴田秀利が所有する文書。柴田の義理の甥・奥田謙造氏が保管している。
** 中野洋一「原発産業のカネとヒト」,社会文化研究所紀要 70, 2012
*** 乾 康代『原発都市 歪められた都市開発の未来』,幻冬社ルネッサンス新書,2018
**** 齊藤充弘「原子力施設の立地と東海村の変化」,帯刀 治,有賀絵理,熊沢紀之編『原子力と地域社会』,p.185,文眞堂,2009年


(原電茨城事務所前抗議行動「星空講義」8,2019年6月28日)


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