大阪市大正区で考えた沖縄と原発
私は水戸に住んでいるが,日本住宅会議 関西会議の会報『あすか』を送ってもらっている。折々誘いも送ってもらっているが,今回届いた誘いは,関西沖縄文庫主宰・金城馨さんの講演「関西沖縄文庫について」だった。大阪の伯母に会いに行くという最大の目的をこの日に合わせ,6月,沖縄県にルーツを持つ住民が人口の1/4を占めるという大正区の街と歴史を学びに参加した。
私がかつて住んでいたところは大阪市の北東端,旭区である。大阪市の郊外部で戦災を免れた住宅地だが,この旭区に比べると,大阪湾に面する臨海区は,産業の工業化と戦災,公害という激烈な経験と変遷をへてきたところだ。阪神工業地帯の中心地だった西淀川区と此花区は修論執筆時に通った地域で,その後も大阪を離れるまで地域の公害反対運動の方々と交流をつづけた。港区天保山は鳴門行きの徳島高速船の発着場があったところで,夏休みと冬休みによくここから船に乗った。これら3区には馴染みがあったが,大正区には縁がなかった。
三軒屋に住む大学時代の友人とJR大正駅で待ち合わせし,大正区のことを教えてもらい,それから40年分の積もる話をした。
大正区は,木津川と尻無川に囲まれた島で,大正4年,浪速区との間の木津川に架けられた大正橋がその由来になっている(図1)。区内を走る鉄道はJ R大阪環状線だけ,区内たった一つの大正駅はその大正橋に近い,区の北端にある。重化学工業地帯の此花区,西淀川区,大阪港玄関口の港区では,大阪湾近くまで鉄道が伸びているか,神戸方面とつながる鉄道の駅がある。他方,大正区には大阪湾に伸びる鉄道駅がない。紡績と製材中心の軽工業地帯だったからなのか,あるいはこの後に取り上げる「沖縄スラム」の存在と関係していたからなのか,確かな理由を聞き損ねた。
代わりにというべきなのか,区を南北に貫通する大正通は中央分離帯付きの4車線道路で,これが南先端に達している。大阪市交通局のバスが市民の足となっている。区内の道路は碁盤の目状に整備されていて見事だ。そういえば,旭区もそうだった。水戸市内の区画整理は,郊外住宅地開発1か所のほか戦災復興事業の城下と最近の駅前だけで,周辺の広大な郊外部は,どこにつながるのかわかりにくい昔の農道や2項道路だらけという道路事情である。改めて大阪市のまちの大半は区画整理でできているということを思い知った。
友人によると,工場は減り大正区は,今は住宅地になっているということだった。少なくなった工場だが,区は,此花区のUSJに遊びに来る修学旅行生向けの区内の工場見学を発案,ものづくりの現場見学の機会を提供しているという。
関西沖縄文庫は小林町にあった。金城さんが1985年に開設した図書室で,沖縄文化の発信地,ヤマトとの交流の場である。金城さんの話には圧倒された。1903年の天王寺で開かれた内国勧業博覧会学術人類館で沖縄女性を「展示」した学術人類館事件,「職を求む,ただし台湾人,琉球人お断り」という就職差別など,戦前の激しい蔑視とあからさまな就職差別は戦後もつづき,沖縄県から集団就職した人々は自身の沖縄県民としてのアイデンティティを殺し,それでもアパートを借りることができなかったという。
文庫で配布された雑誌記事「放置される沖縄スラム ここに政治を」は「沖縄スラム」の様子を伝えていた(アサヒ,1968年7月15日)。小林町の約400mと100m四方の土地に約400世帯,1,500人が集住するスラムは,1/3が沖縄県出身者だったという。人口密度は超過密な3万7500人/㎢。住宅は1住戸1部屋,上水道整備割合1/2,トイレ共用のバラックで,ドブが通路をめぐる不衛生で,ひとたび火災が起きれば大惨事になる危険な住環境である(図2)。
図2 小林町の沖縄スラム(1958年)*
しかし,空室があれば敷金なしですぐに入居でき,助け合えるコミュニティがある。差別ゆえの低収入で住まいの確保さえ困難な人々の安心の居住地だった。その小林町に,金城さんの活動拠点で,沖縄とヤマトが交流する場,関西沖縄文庫がある。
『大正区の歴史を語る』『大正区の歴史を語る2』(2005,2015年)は,大正区が発行した冊子だ。大正区の歴史に,出稼ぎにきた沖縄人が大正区に定住し区に残した足跡の記録がないという金城さんの指摘に,区が編纂した。集められたオーラルヒストリーは,人々が交流し文化が交差して地域がつくられることを教えてくれる。筋原章博・大正区長も,「大正区には,四国・九州・沖縄・韓国など様々な地域から移住されてきた方がおられます。(中略)沖縄のみならず様々な地域の交流により発展してきた大正区の文化と歴史を多くの方に再認識していただくきっかけに」と述べている。
金城さんの話は,関西の沖縄人の歴史からさらに沖縄の基地問題に迫る。沖縄の基地集中に沖縄への差別構造を指摘し,辺野古埋め立てに「暴力の移動」を見出す。辺野古埋め立て問題に他人事だった自分を反省した。とともに,私が茨城で声を上げている東海第二原発再稼働問題との関連を考えた。
茨城県にもかつて米軍の水戸射爆場があった。地元住民を殺傷したゴードン事件や数えきれないほどの誤爆事件を起こしてきた危険な施設だったが,この施設のごく近くに,強引に東海原発は設置された。水戸射爆場の返還は,県をあげての運動の末,横田基地への再編という名目の関東計画で実現した **。米軍射爆場からの原発の安全確保は,横田基地周辺の広範な地域の人々に負担を増やすことで実現されたものだった。
いま関東では,もう一つの原発,3.11で被災した老朽原発の東海第二原発が,東京電力と政府の後押しを得て再稼働しようとしている。首都圏数千万人の生命と安全を脅かす危険な原発である。これを原発の首都圏問題と呼ぼうと思う。問題はきわめて深刻だが,首都圏6知事(茨城県知事以外)は茨城の問題に矮小化したうえ,これは国家のエネルギー問題だと論理を飛躍させている *** 。
6月23日の沖縄慰霊の日,この国の首相は,辺野古移転と埋め立て工事強行という政府が引き起こしている重大問題に一切言及しないまま「基地負担の軽減に向けて,一つ一つ,確実に,結果を出していく」「沖縄が日本をけん引し,21世紀の『万国津梁』として世界の架け橋となる。私が先頭に立って,沖縄の振興をしっかりと前に進めて」いくと挨拶した。空疎な言葉の羅列だった。
首都・東京から,日本の周縁地域と関東の周縁地域の人々に負担を押し付ける論理の矮小化と飛躍は,首相も首都圏知事もまったく変わらない。
* 大阪市建設局「1958年当時の盛土予定付近の住居」1994,水内俊雄「大阪市における沖縄出身者のまちーー集住・差別・まちづくり」『南太平洋海域調査研究報告』 No.35,2001
** 小山高司「『関東計画』の成り立ちについて」,戦史研究年報 11(NIDS防衛研究所),2008年3月
*** 東京新聞「東海第二原発アンケート 6知事再稼働賛否示さず 当事者意識低さ浮き彫り」,2019年5月11日。乾 康代「東海第二原発再稼働は首都圏6知事には他人事か,東京新聞の記事に考える」『須和間の夕日』,2019年5月18日。
*** 茨城県知事を除いた首都圏6知事に回答を求めた東京新聞調査の結果で,茨城県知事は,論理の矮小化や飛躍させない,ということを意味するわけではない。
(日本住宅会議 関西会議『あすか 安住処』No.160,2019年8月10日,一部加筆修正)
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