東海モデルを形づくった日本原子力産業会議
東海村の原子力センター建設には,日本原子力産業会議(原産)と東海原子力都市開発株式会社(東海都市開発)が深くかかわった *。図式的にいえば,原産が原子力センター建設計画をつくり,原産の計画実行組織である東海都市開発が原子力センターの基盤づくりを担った。具体的には,村内各地から事業所用地を確保し,ガス供給設備,ホテル,購買施設など原子力事業者共用の設備・施設を建設した。
本論は,この2者の働きを通して,東海モデル=周辺開発規制なしの原発立地,がどのように形成されていったのかを検討する。
再度になるが,これまでにわかったことをまとめる。
1956年4月,東海村に原研が設置されることが決まるや,原産は,東海村に建設する原子力センター建設のための開発計画をつくった。その計画実現のための最初の事業は,誘致企業の事業所や原研・原電の給与住宅団地のために用地を確保することだった。この事業のために動いたのが東海都市開発で,1957年3月までに村内14か所の用地を確保し,原産はこの実績を踏まえつつ,1957年5月,「原子力センターの将来図」として「東海村の立体的図板」を作成し,公開した **。図板とは板に描かれた平面図のことで,東海村の立体的図板とは,東海村全体を対象にした都市模型である。
立体的図板には,これら村内各地に事業所や給与住宅団地などの模型が立っている様子が表現されていただろう。新たな道路も描かれていただろう。「原子力センターの将来図」だから,大きく発展した市街地や港湾,橋なども描かれていたかもしれない。さらに,原発も描かれていた可能性がある。これについてはのちに説明する。現在,これら14か所の用地のほとんどに原子力事業所が立地しているから,少なくとも原子力施設の配置はほぼ原産の計画通りになった。
この立体的図板は,この東海村の原子力開発について明らかにする上で2つの意味で重要である。一つは,原産が,東海村にどのような原子力センターをつくろうとしていたかを読み取ることができる。二つ目に,東海都市開発が確保していた用地は,その後,住友,三菱などの核燃料加工工場,原研と原電の給与住宅団地になったが,原子力開発以外の開発との関連で,原産の計画はどのように貫かれ,あるいは他の通常の開発とどう調整がなされたのかなど,東海村の開発を明らかにするための基礎資料になる。
そこで,筆者はこの立体的図板に関する資料を探した。
まず見つけたのが,立体的図板を公開した東京の展覧会情報である ***。それは,読売新聞の広告にあった。展覧会の名称は「日米原子力産業展覧会」,会場は,展示専用施設ではなく百貨店白木屋の催し物フロア,主催は日本産業会議とアメリカ産業会議,読売新聞である。期間は5月9日から19日で,わずか1週間あまりだった。
展覧会の名称,会場,期間からして,展覧の内容を深く掘り下げた展覧会ではなく,話題づくりのレベルでしかなかったようだ。広告紙面も,展覧会は白木屋各フロアのセールとの抱き合わせだった。
広告には,展覧会について次のように説明されている。「新しい産業革命の母体,原子力の全貌を一堂にする画期的な展覧会です。原子炉をはじめかずかずの模型,実物,写真,図表などにより基礎的原子力の原理をご説明,日米両国の最も新しい原子力の関係の機器,更に原子力による新しい未来の夢をご紹介いたします」。
主催者である読売新聞は,メインイベントの日米の原子力産業会議による合同会議については大きく報道したが,展覧会の記事は掲載しなかった。原産自らが発行する新聞,原子力産業新聞も,3月,立体的図板の予告記事を載せたが,開催後,この展示物についての解説も,見に来た人々の関心のほどについても記事にしなかった。
他方,茨城県や東海村にとっては,この立体的図板は関心を引く展示物だったはずである。地元新聞や県の公文書に残されているかもしれないと期待したが,新聞と広報にはなかった。茨城県内で展示されなかったから,地元に広く知られることもなく,関心を持たれることもなかったようだ。
しかし,県も村も,原産が原子力センターの開発計画をつくっていたことは知る由もないから,この立体的図板は,驚きの原子力センター建設の計画を知る機会になるはずだった。驚きの計画とは次の2つである。
①原研サイトの至近に給与住宅団地の用地を多数,確保していたことである。②2つ目はもっと強烈な驚きである。1957年5月は,日本原子力発電(原電)設立も東海原発の計画もまだ明るみになっていない時期だが,この時期までに東海都市開発が確保していた用地には「原発住宅」(原発従業者向けの給与住宅団地)がある(6月7日論考,図2)。したがって,立体的図板には,原発住宅が描かれていた可能性がある。原発住宅を描くなら,原発もなければならない。つまり,立体的図板には,原発も描かれていた可能性がある。
しかし,県の公文書に立体的図板に関する記録や記述は見つかっていない。県も村も,これらの驚きの計画に気づくこともなければ,原産と原子力センター開発計画について確認をし議論する機会さえ逃してしまったようだ。
一つ目の驚きの計画,サイト至近に住宅団地用地が確保されていたことについては,こんなエピソードがある。1957年暮れ,東京から赴任し用地買収の仕事をしていた原研の菊池博光は,原研に近い土地を求めたかったが,電気通信研究所が先を越して原研の前の土地を買収していたこと,1958年ごろ,荒谷台,1959年,長堀の住宅団地用地を買収したことをインタビューで語っている。原研荒谷台住宅,原研長堀住宅は,東海原発からそれぞれわずか2.5km,3.3km先の給与住宅団地である。事業者はサイト至近に住宅団地をつくることになんの躊躇もなかった。
一方の国は,この時,原子力都市計画法の制定に向け,周辺開発規制に関する議論をはじめていた。しかし,原産と原産に参集した原子力事業者たちは,上記のように,住民の安全確保にまったく無関心で,国が始めたサイト周辺の開発規制の議論にも関心をもたなかった。
この時期は,新都市計画法(1968年)の線引きも開発許可制度もまだなく,開発は自在だった。とはいえ,原発設置を念頭におき,その周辺にいくつもの住宅団地を描いた立体的図板である。あまりにも安全無視の計画に対して県も村もその問題点を正すことをしないまま,原産は,自身が描いた将来像の実現に向けて事業を進めていったのである。
6月7日,28日と今回の論考を合わせて,東海モデルの形成過程をまとめる。
東海モデルは,原子力センター建設の初期に,2段階をへて完成した。第一段階は,原産の原子力センターの開発計画に沿って,東海都市開発がサイト至近に給与住宅団地の用地を多数もとめ,住宅地開発が先に進行していった。
第二段階は,茨城県は,原発サイトへ住宅地開発が接近するのを禁止するための策として,原子力委員会よりグリーンベルト構想を提案されていたにもかかわらず,サイト周辺の開発規制を骨抜きにする県原子力施設地帯整備基本計画(1965年)を策定した。こうして東海モデルは決定的なものになった。
要するに,周辺開発規制が議論される前に,原産と東海都市開発による民間レベルでの大量の住宅地開発が先行したうえに,そもそも強い開発意欲をもち,これらの開発を許した茨城県が,原発サイト周辺の開発規制を骨抜きにする基本計画を策定したことで,東海モデルは決定的になったのである。
* 「『原子力センター』建設を担った東海原子力都市開発」(6月7日),「原子力産業会議が描いた東海村の「原子力センター』」(6月28日)
** 原子力産業新聞,1957年3月25日
*** 読売新聞夕刊,白木屋広告,1957年5月8日
(原電茨城事務所前抗議行動「星空講義」12,2019年8月2日)
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