東海村の原子力開発史で見つけた3事実

東海村の原子力開発史を5回にわたって書いてきた。この論考で3つの発見があった。いずれも私にはびっくりの発見だった。

一つは,日本原子力産業会議(原産,現・日本原子力産業協会)が作成した「東海村の立体的図板」。二つ目は,原産が東海村の開発を計画したという事実。三つ目は,茨城県も東海村も,原産の思い通りの開発を許したという事実,である。

一つ目の発見,東海村の立体的図板は,東海村の将来像を描いた模型である。こういうものがあったという事実の発見で,実物またはこれに関する資料はまだ見つかっていない。立体的図板には驚くべき計画が描かれていたはずで,もし何か見つかれば,原子力開発の深い闇に光を当てられることになる。見つからなかったと諦めるわけにはいかないので,私は,もう少し細々と探すつもりでいる。

この発見から芋づる式に,次の2つの発見が導かれた。

二つ目の発見,原産が東海村の開発を計画したという事実。東海村の開発には,原子力の父とも称された正力松太郎が深くかかわっている,ということはわかっていたが,「原産」という組織をはっきりさせることができ,びっくりの発見となった。

最初のきっかけは,柴田秀利文書「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」を入手したことである。柴田秀利は原産参与・経済委員であったことがわかり,それまで謎でしかなかった東海都市開発は原産の開発計画の実行組織だったことが見えた。原産が立体的図板をつくれたのも,東海都市開発が東海村長や地主の協力を得て大量の土地を確保したおかげだった。

三つ目の発見,茨城県と東海村は,原産が計画したとおりに原発に住宅地を近づけて開発することを許したという事実。県と村が,原産の開発計画を知っていたのかどうかは不明のままだが,原発に近づく住宅地開発を大量に許したという事実は消せない。

さて,三つ目の発見に関連して,県と村の情けないこの対応をどう評価するか実は悩んでいる。東海村は,原産の原子力センター建設の名による開発の餌食になったのだろうか。それとも原産の開発計画のおかげでちょっとはマシな開発ができたと言えるのだろうか。

住民の安全軽視の住宅地開発を許したという事実を直視すれば,決定的に間違いの都市開発だった。これを大量に許したことで東海モデルは完成し,全国の立地地域に広がった。東海村の間違いの開発が,原発誘致の地域のお手本になったのである。寒村だった東海村がこんなに豊かな住宅地になった,自分たちの村もこのように豊かになる,と。

私たちは,東海村の間違った開発の姿が,原発誘致を検討していた村に間違った夢を与えたということをきちんと理解しておく必要がある。このように考えれば,やはり,原産の開発計画でちょっとはマシな開発ができたという評価をしてはならないのだろう。

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