ゆがめられた東海村の都市開発(講演要旨) 

日本共産党茨城県地方議員夏季研修会に呼んでいただいた。6月6日のしんぶん赤旗記事「都市開発の視点から再稼働に警鐘 安全ゆがめた『東海モデル』 命脅かす原発と共存できぬ」の内容を膨らました話をしてほしいとの依頼だった。

東海村の歪んだ都市開発を理解するには,「原子力センター」と「東海モデル」という2つのキーワードを軸にして話をすすめるのが一番よい。そう考えて,以下のように構成して話をした。

なお,この講演のタイトルは「原子力センターと東海モデル 東海村の原子力開発史を理解するためのキーワード」だが長いし,わかりにくい。ここでは,「ゆがめられた東海村の都市開発」にした。


① 1956年4月,東海村での原研設置が決まるや,日本原子力産業会議(原産)は「原子力センター」建設の名のもとで開発を先導した。

② 一方の国は,この動きに遅れること2年,「原子力センター」と茨城県が作る基本計画の根拠法となる原子力都市計画法をつくろうとしたが,周辺開発規制を含む法案は上程さえできず流れてしまった。

③ その後5年もの月日を浪費したのちに提出された,原子力委員会原子力施設地帯整備部会答申(部会答申)は,グリーンベルトという画期的な構想を提起していた(図1)。隣接地区(=グリーンベルト)とその外側の近傍地区という,いわば2重のバリアで,住宅地開発が原発に近づくのを阻止しようという構想であった。

図1 部会答申のグリーンベルト構想


④グリーンベルト構想とは,大ロンドン計画(1944年)をお手本にした第一次首都圏整備計画(1958年)に着想を得ている。大ロンドン計画は,大ロンドン市が周辺の農地,森を蚕食して拡大することを規制するために,市を取り囲む農地や森をグリーンベルトとして指定し開発規制をかけたものである。この制度を取り入れたのが第一次首都圏整備計画で,東京と横浜を囲むグリーンベルトを描いた(結果は,見事に開発されつくした) *。

部会答申はこの方法を援用して,原発の周囲にグリーンベルトを巡らせ,周囲から原発に住宅地開発が近づかないようにしようとしたのである。

⑤茨城県は部会答申を受けて,東海村の開発の基本計画をつくることになったが,県はそもそも開発規制を嫌っていたから,グリーンベルトを骨抜きにした「茨城県原子力施設地帯整備基本計画」を策定した。

⑥県のこの基本計画ができた時には,すでに原発サイト至近に住宅地が開発され,東海村にやってきた人々の新しい居住地になっていた後だった。これが,「東海モデル」(=周辺開発規制なしの原発立地)形成の第一段階である。県は,この現状を追認するとともに,以後,実質的に周辺開発規制なしで開発を推進した。これが「東海モデル」の第二段階で,こうして「東海モデル」は完成した。

⑦全国の原発立地地域で,原発(または核燃料サイクル施設)サイトを工業専用地域に指定しているのは東海村と六ヶ所村だけである。その他で用途地域指定をしている自治体はゼロである。自治体全域を都市計画区域に指定していないところもある。

通常,危険な工場が立地する地区は工業専用地域に指定し,住宅地を遠ざける。当然の都市計画である。ところが,東海村と六ヶ所村をのぞいてどこもその指定をしていない。法定規制がないというだけでなく,東海モデル=周辺開発規制なしなので,開発は野放しである。

原発が立地すれば,たとえ人里から離れていても,居住,宿泊とそれにともなって様々な需要が起きる。市街地が原発サイト周辺にできる。これが「東海モデル」の実相である。

こうして住民を原発のリスクにさらすという異常なことが,全国の各地で普通になってしまった。なかでも東海村は,全国のどこよりも東海モデルを率先してきた立地地域で,膨大な数の住民を危険にさらしている。

⑧東海第二原発の周辺には3.8万人の村民が住み,30km圏には94万人,その先には3,000万を越す人々が住む首都圏がある。40年を越した老朽原発の再稼働がもたらすリスクは巨大すぎる。東海第二原発の再稼働は絶対に許されない。

2は,以上を図式化したものである。


図2 「原子力センター」と「東海モデル」の関係


説明を少し付け加えておきたい。

部会答申のグリーンベルト構想は,実に画期的だった。原子力開発の黎明期に,このような画期的な構想が提起されていたという事実は,きちんと記録にとどめておく必要がある。

部会答申がこのような画期的な構想を提起できた背景には,部会長に都市計画専門の飯沼一省,都市計画小委員会主査にも都市計画専門の松井達夫が,その座を占めたということがとても大きい。危険な施設周辺の開発について空間的に規制をかけようとしたのである。

3.11後,国会事故調査委員会の質問に答えて,斑目春樹原子力安全委員長(当時)が,原子炉立地審査指針が規制する放射線障害は,原子炉敷地外で発生しないようにたいへん甘い計算をしていたことを認めたという報道に接して,びっくりしたことを思い起こす。

実は,立地審査指針にも空間的規制の記述があった。

①原子炉からある距離の範囲内は非居住区域とする

②非居住区域の外側のある距離の範囲内は低人口地帯であること

③原子炉敷地は,人口密集地帯からある距離だけ離れていること。

しかし,指針の運用にあたって規制の数値を示さなかった。距離は線量計算で,どのようにでも調整できるということらしい。

都市計画は,人間の住む環境の安全確保が必要な場合には,空間的に規制する。具体的には,線を引き面で指定し,人の住む環境から遠ざけるべきものはきちんと空間的に遠ざける。原子力安全委員会の都合のよい解釈は,絶対に受け入れられない考え方である。


以上のような話の後,会場から質問を2つ受けた。

一つは,東海第二原発の再稼働阻止の運動に,半世紀前の原子力開発におけるこのような歴史論,そもそも論がどれだけ力を発揮できるか,という趣旨の質問である。

これは本当に難しい。私もずっと悩んでいる。去年の2018年10月,東海第二原発の運転延長申請が通りそうだという時,取材を受けて,それらは記事になった。それなりに強いアピールができたと思うが,まだ不十分である。不十分だと思ったので,7月26日「東海第二原発の再稼働が絶対に許されない理由」を報告し,ここにも書いた。

ここには新しいことは何ひとつない。訴求力を高めるために,論をごく単純化して,安全でないものはダメだと主張した。今後も,手を替え品を替えつつ,「安全ゆがめた『東海モデル』 命脅かす原発と共存できぬ」ことを書いていこうと思っている。

もう一つの質問は,当時の原子力開発は,国策という名のもと国と民間が一緒になってやっていたのではないか,というような趣旨の質問だった。

その通りだと思う。東海原子力都市開発株式会社(東海都市開発)設立趣意書には,次のようなことが書かれている。

「われわれは(中略),世界に恥ずかしからぬ理想的な原子力都市建設に必要な諸般の事業を組織的に遂行したい念願である」。一介の不動産事業者にすぎないのに,まるで国の機関のような口ぶりである。

当時の原子力委員長は正力松太郎,原産の設立提唱者も正力松太郎である。東海都市開発は,原産の原子力センター建設事業の実行組織であることに鑑みれば,この設立趣意書は,実は正力松太郎その人が書いたのではないだろうか。

これはまだ想像のレベルだが,それでも,設立趣意書のページ番号⑵にはちゃんと「官民一致して,予め周到な都市計画を用意し,強力にその具体化を図ることが必要」と書いてある。ひょっとしたら,正力松太郎が作文したという想像はドンピシャかもしれない。

「官民一致」の実態とその問題を明らかにすることは,今後の課題になる。


* 石田頼房「大ロンドン計画の不肖の弟子 第一次首都圏整備計画(1958年)」『未完の東京計画 実現しなかった計画の計画史』,筑摩書房,1992年


(原電茨城事務所前抗議行動「星空講義」13,2019年8月9日)


2コメント

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  • 乾康代

    2019.09.26 15:44

    @すずき産地力の入ったお話ありがとうございました。 ドイツのこういうお話,触発されます。
  • すずき産地

    2019.09.17 23:16

    先週の金曜、半端きわまる報告?をしたドイツの話のつづきです(^^♪ https://www.facebook.com/suzuki310/posts/2452718471470700