東海村須和間につくられた規制破りの住宅団地

茨城県の農村

茨城では都市の規模は小さい。だから,少し移動すればすぐに都市の外れに出て農村に入る。しかもどこまでも農村がつづく。茨城は農村部がとにかく広いが,都市に近接する農村は,市街地かと間違うような開発がすすむ。

東海村は,3.8万人もの人が住む,とても大きな「村」だ。原子力による都市開発と,日立市の隣という環境のもとで,農村は大きく変質した。今日の星空講義のテーマは,東海村の農村での開発がもたらしたものを考える。

東海村で調査をするまで,知っていると言える農村は,子どもの頃からよく遊びに行っていた奈良県大和郡山市小南町の集落ぐらいだった。 大和郡山市は奈良盆地の真ん中にあって,田んぼは条坊制を基盤として整然と区画され,集落は一面に広がる田んぼの中に点在している。集落の形態は集居村。住宅は,集落内を南北と東西に走る細い道路に面して稠密に建っている(写真1)

写真1 奈良県大和郡山市小南町 (Google Earth,画像取得2018年4月13日)


住宅敷地は大して広くない。茨城県の農村に見慣れてしまった筆者の目には,かなり狭い。 農家が集居しそれぞれの住宅敷地も狭いから,母屋と付属舎の配置は秩序立っている。

母屋と付属舎が敷地をぐるりと取り囲む配置で,敷地入り口は南にある。筆者が知る農家住宅は,母屋が正面南向きに建ち(敷地北),門と牛舎,物置兼作業場が南,外便所と風呂,井戸が東,離れと鶏小屋が西,に配置されていた。ちなみにだが,便所は大と小で分けられていて,大は門の横,小は母屋の玄関横にあった。真ん中に中庭がある。

対して,広大な関東平野の農村は,山に囲まれた奈良盆地の農村集落とはまったく異なる。山が少なく平地が7割を占める茨城県の農村集落はとにかく広々としている。集落形態は散村,住宅敷地が広い。写真2は東海村須和間区の集落である。平地林を背に住宅が集中しているが,サツマイモ畑の中にも住宅が点在する。


写真2 東海村須和間区 (Google Earth,画像取得2018年5月16日)


農家の建物配置は,一定のルールはあるが敷地形状に対応して自在である。図1の例は,屋敷林を抱え,敷地真ん中に入母屋破風付きの格式ある母屋が立ち,蔵はその真向かい,新宅(分家住宅)が敷地入り口に立っている。

 図1 須和間区の農家(2007年ごろ採取)


茨城県の住宅敷地が日本一広い理由

だいぶ前になるが,「秘密のケンミンSHOW」(日本テレビ)の番組制作会社から大学研究室に電話がかかってきて,茨城県の特集準備をしている,茨城県の住宅敷地が日本で一番広いのはなぜか,教えてほしいという質問を受けた。

3つの理由を考え,伝えた。茨城県は,①山が少なく平地が広い,すなわち可住面積が広い,②その広大な可住地の圧倒的部分を農村が占める,③農村集落は,集居村ではなく散村。だから住宅敷地が広くなる。

当日の放送を見た。茨城県の特徴的な住宅事情は,「連続転勤ドラマ 辞令は突然に…」で取り上げられていた。東(あずま)京一郎は茨城県に赴任が決まり,妻はるみと東海村の部長宅へ挨拶に行ってびっくり,母屋は敷地入り口からはるか奥遠くに建っていた,という導入の後,部長夫婦に,茨城県の特産や名所を紹介,案内されるという構成だった。

筆者は,東海村であんなに広い住宅敷地を見たことがなかった。茨城県の住宅敷地面積は日本一,を強調するために,番組は,図1のような,しかし,これよりさらに広い敷地の住宅を見つけてきた。


東海村農村区に都市住民が多い理由

東海村は,原子力による都市開発が始まる直前の1955年,耕地率67.8%,農業人口75.1%の農業の村だった。半世紀以上をへた現在,農業人口は大きく減り,わずか5%になった。にもかかわらず,村面積の7.5割を占める市街化調整区域(=農村地域)には,村民の6割弱が住んでいる。都市住民が,都市住民の居住地ではない農村地域に多数住んでいるのである。

そもそも市街化調整区域で,都市住民が土地を取得して住宅を建設することはできない。にもかかわらず,市街化調整区域に,都市住民が多数やってくるのは,茨城県の10年特例という緩和規定にくわえて,農村は市街地より地価が安い,環境が良いという条件が好まれたという事情がある。さらに,原発サイトに近くても宅地開発が規制されていないのは安全だから,という東海モデル依存と安全神話信仰も当然あるのだろう。


須和間でつくられた住宅団地開発

詳しい事情を須和間区で見ていきたい。

須和間区は,原子力開発が始まって以降,開発で人口が急増した農村区である。ここで,明治期以来,住宅建設が顕著に増加したのは,敗戦から20年後,原研設置から10年後に始まる<1964-1975年>の10年間だった *。

この時期は,高度経済成長の最中で,東海村で最初の戸建て住宅団地,緑ヶ丘団地(1971年)が開発された時期である。

この緑ヶ丘団地の開発は実は,きわめて問題の大きい開発だった。というのは,この団地用地は,茨城県原子力施設地帯整備基本計画(1965年)で,原発サイトに開発を近づけないようにという目的で開発が規制された緑地だったからだ。それが,計画策定からわずか6年後に規制は無視されたのである。


須和間の住宅団地開発の何が問題か

この団地開発に対しては,次の2つの重大な問題点がある。

①立地場所は,原発からわずか4kmの至近距離にあったことで,原子力施設地帯整備部会答申(部会答申,1964年)が開発規制をもとめた「近傍地区」(=原発の6km圏内)の中である。

②原発サイトから至近距離のこの立地で,1,000人を超える人口集中地区をつくったことである。部会答申では,「規模の大きい人口集中地区が生じない地区」として,団地開発を規制していた区域である。部会答申は,住宅団地は,近傍地区の外(6km圏外)に置くことを求めていた。

緑ヶ丘団地は,このような重大な問題のある立地場所にありながら,開発が許可されたのである。茨城県は,自ら決めた都市計画的規制を破り,住民の安全追求という原子力行政の理念を貫くこともしなかった。このことを強く指摘しておきたい。

話は戻るが,<1964-1975年>期に,須和間の既存農村区域で,住宅建設ラッシュを起こしたのは,実は農家であった  *。緑ヶ丘団地などの開発用地として土地を提供し臨時収入を得た農家がたくさんあったのだろう。

次の<1974-85年>の10年間,状況は一変した。新都市計画法の線引き制度(市街化調整区域の設定)が導入された時期だが,東海村で2つ目の戸建て住宅団地,南台団地が開発された。

南台団地は,緑地などの開発規制区域ではなかったが,部会答申に照らし合わせれば近傍地区内である(東海原発から5.2km)。こちらも大規模団地で,部会答申にしたがえば,やはり許可してはいけない開発だった。

緑ヶ丘団地と南台団地はいずれも,日立系列のディベロッパーが計画し開発した。計画人口はそれぞれ1,000人と2,000人規模である。茨城県は,一度に大量の人口を呼び寄せるこの住宅団地計画を嬉々として受け入れたのだろう。


増えつづける新住民と高齢化する農家

この時期の状況の一変とは,農家の住宅建設は急減する一方で,新住民の住宅建設ラッシュが起こったことである。

なぜ新住民の住宅建設ラッシュが起こったのか。

一般的に,大規模団地が開発されると,周辺にミニ開発やバラ建ち開発が誘発される。2つの戸建て住宅団地建設にくわえ,21世紀に入ると3つ目の戸建て住宅団地の開発が始まり,須和間区は,これらの隣接区として,ミニ開発やバラ建ち開発が多数起こったのである。以後,既存集落の中で10年間で20%以上の人口増加率を記録している。

以上のような経緯をもつ農村区,須和間は,今,どのような住民によって構成されているのだろうか。2006年,区内に住む159世帯を,①出身(世帯主が地元か来住か),②職業(世帯主が農家か非農家か)で分類した *(緑ヶ丘団地,南台団地はいずれも分区している)。

① 地元出身69.8%,来住30.2%

② 農家(専業農家+兼業農家)43.4%,非農家56.6%,という結果だった。

世帯主でみた須和間区の住民は,地元出身は7割で多数とはいえ,来住世帯が3割に達している。農家は半数を大きく割り込み,非農家が5割を超している。専業農家は1割程度しかなく世帯主年齢は70歳代が圧倒的多数だった。兼業農家も同様の傾向で,50, 60歳代が中心,若い世帯が極端に少ない。他方,来住した都市住民の世帯は,40歳代が中心だった。

調査時から13年たった。単純な見方をすれば,専業農家は80歳代が中心,兼業農家は60,70歳代が中心になっている。他方,若い世代が中心の新住民は増加している。農村区須和間は困難な状況が深刻化している。


* 乾 康代,寺内美紀子,伊藤勝紀「都市近郊農村における世帯類型別に見た住宅建設動向と住宅外観の特質 -茨城県東海村須和間区を事例にして-」 日本建築学会計画系論文集 632,2008年


(原電茨城事務所前抗議行動「星空講義」14,2019年8月16日)

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