中村彝のアトリエ その4 住居史の中の彝のアトリエ
水戸の彝のアトリエは,偕楽園の眼下,千波湖のほとりに立つ茨城県近代美術館(設計:吉村順三,竣工:1987年)の敷地内にある。道路を挟んだ向かいには,茨城県民文化センター(芦原義信,1966年)が立つ。
界隈は,芸術と市民の文化活動の拠点的な場所である。建築と環境が美しく調和する場所である。私は,水戸に就職が決まり大阪から家を探しにきた3月,市内あちこちの借家の案内をしてくれた不動産屋の車の中から,この2つの美しい建築と環境を見た時,この近くに住みたいと思った。そしてこの近くに家を見つけた。
話をもとに戻そう。最近,長らく空き地だった彝のアトリエの隣接地に,カラフルな外壁材をめぐらした住宅が建ち並んだ。2つの近代建築と,流行りの工業化住宅群に囲まれた環境の中で,彝のアトリエはひとり,深い森の中に佇むようにして立っている(写真)。
写真 アトリエを南東方向からみる
(東面の緑の小さな屋根は玄関の屋根,ここから入ると彝のアトリエ,南に突き出た部分は彝の居室)
彝のアトリエは,大正5年(1916年)8月に竣工した。アトリエは,平たく言えば,懐かしく古めかしく新しい。この魅力はいったい,どこから来るのだろうか。日本の住居史と当時の社会関係からこの住宅を読み解く。
魅力の出所の第一は,やはりその造形だろう。
アトリエの隣接地にできた新しい住宅地は,日照や結露,エネルギーの効率利用を優先するのっぺらぼうな四角い建物ばかりである。自然と芸術と文化の環境にあって,彝のアトリエの隣りとあれば,その優れた環境を生かすデザインがなされていいものだが,残念なことにそんな配慮は一切なされなかった。
彝のアトリエは,最初の論考で考察したように,特徴的な平面構成の上に3つの屋根を伏せている *。その造形には,画家としての彝の強い思いが反映され,当時としても強烈な個性を放った住宅だっただろう。今日,商品住宅や工業化住宅でお仕着せの住宅ばかりになってしまった状態を見るにつけ,住宅とは何なのかを改めて考えさせる場にもなっている。
材料は,当然だが,工業製品は使われていない。自然素材の内装はやはり人間の膚に合う。ただし,水戸のアトリエでは,床を当初の板張りとせず,リノリウム(か?)を使っているのは,イベントをすることを考えて,という説明だった。
この住宅に感じる新しさは,洋風住宅という点だろう。内部は,(柱を壁材で隠す)大壁造り,和室はただの1室(3畳),広い洋間のアトリエに高窓と天窓,アルコープ,外部は,内部仕上げとは違って土台や柱を見せてサッシとともにペンキ塗りとし,洋瓦葺き,上げ下げ窓,パーゴラ(水戸のアトリエでは再現されていない)。彝の生活スタイルも椅子,テーブル,ベッドを使う完全な洋式生活である。住宅も生活も,彝は,時代の最先端をいっていた。そして,今でも新しい。
一方,古さということでは,今では見ることのない使用人部屋,極小の3畳部屋だろう。下落合のアトリエでも,水戸のアトリエでもパンフレットには「家事使用人部屋」などとは書いていないが,彝の世話をした岡崎きいの居室である。
当時の都市住宅では,住み込みの家事使用人の部屋は普通にみられた。1920年の東京市では,11.4%の世帯に住み込みの家事使用人がいた **。これら世帯の住宅では,妻や子ども専用の部屋はさておいても,使用人の部屋は必ず確保された。それは,使用人のプライバシー確保のためではなく,使用人を家族と空間区分するためだった。
家族との空間区分を目的として置かれた部屋だが,あからさまな隔離的区分だった。部屋はたいてい台所の横に配置され,布団を敷けば床に余裕はないという極小の2畳または3畳。住み込んだのは貧農や小作農出身の未婚の若い女性で,行儀見習いの名目でたいてい無給で働いた。部屋は「女中室」とか「女中部屋」と呼ばれた。
彝の世話をしたきいは,もちろん女中ではない。安政5年(1858年)生まれ。若い時,水戸家御殿で女中奉公をし,見初められて土佐山内公の側室になった ***。御殿女中から側室へという,女中奉公のいわば「上がり」までのぼった女性だったが,人格を丸ごと主人に差し出すことを求められる労働はいつまでつづけたのだろう。58歳で,彝のアトリエにやってくるまでの,きいの数10年間の人生は分からない。
きいは,彝のアトリエに来た経緯を次のように語っている。
「甥が,ほんの一週間ばかりで可いから中村の面倒を見てくれと頼みますので,その積もりでこちらへ来たのです。看護婦も沢山代わりましたが,私はどうしてもこのまゝにて帰れず死水をとることになってしまいました」****。
きいは,彝より29歳上だったから,彝にとって母親のような歳である。彝とは壁ひとつ隔てた室で寝起きした,きいに世話をしてもらった彝と,1週間のつもりがこのまま帰ることはできず,アトリエに住み込みつづけ,死に水をとるまで彝の世話をしたきい。彝が,最晩年,きいをモデルに描いた「老母の像」(1924年)からは,「母」を思う画家の思いが滲み出ている。
彝のアトリエは,当時の住宅の中でどんな位置づけができるだろうか。
建物面積は,約39.5畳(64㎡,19.4坪)。これを『住宅建築』(建築世界社,1916年)の4分類,「普通住宅」(20~50坪),「中流住宅」(40〜90坪),「上流住宅」(80〜120坪),「華族向き」(200~300坪)に照らし合わせてみれば,もっとも狭い分類の「普通住宅」にも入らないということになる **。
都市生活者は,当時,そして現在もそうだが,世帯を持って戸建て住宅に住む選択をしたから,彝のように独身者が戸建てを取得するという選択はきわめて珍しかった。彝の場合,アトリエという,普通の住宅にはない特殊な室をもつことが最大唯一の目的で,資金の制約もあって,アトリエ以外は最小限にする狭小住宅になった。実際のところ,アトリエの床面積は,建物面積のほぼ半分を占めている。
そのアトリエは,北向きの部屋で直達日射は届かない。しかも,広く,窓がとても大きい。どんな暖房器具を使ったのか分からないが,冬は身を切るように寒い仕事場だったはずだ。療養の身で,1年のうちの数ヶ月,厳しい環境に耐えて制作をした彝を想う。
住居史をバックに彝のアトリエを読み解いてみた。分かったこともあったが,分からないことだらけになったようにも思う。最後に知りたいのは,彝ときいが,この家でどのように生活し,どんな生き方をしようとしたか,この家は二人にとってどんな家だったかである。
12月始め,久々に東京に出るので,下落合のアトリエを訪問しようと考えたが,工事中で閉館中とのことだった。春になったら訪問したい。
* 中村彝のアトリエ,2022年10月30日
** 西山夘三『日本のすまい II 』,勁草書房,1976年
*** 藤本陽子編「中村 彝年譜」『中村 彝の全貌』p.161,茨城県近代美術館,2003年
**** 『東京朝日新聞』,1924年12月24日
中村彝のアトリエ その2 小住宅の空間構成,2022年11月9日
中村彝のアトリエ その3 住宅を美しく見せる展示,2022年11月22日
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