東海村の住宅地はどのようにしてサンドイッチ型密集地になったのか(東海村の原子力開発の歴史2)
脱原発とうかい塾会報「浜ぼうふう」80号(2022年冬),連載2回目。
前回は,東海村の住宅地は原子力施設でサンドイッチ状態になっていること,これはとてもおかしいこと,こんなことが可能になったのは日本原子力産業会議(原産)が東海村の都市計画を歪めたからだというお話をしました *。
原産とは,原子力委員会初代委員長・正力松太郎が設立を提唱して,原子力開発のために電力会社,重電機メーカーを中心にして集めた民間事業者組織です。原産は1956年,東海村へ進出する原子力企業(三菱,住友,富士・古河)のために茨城県行政に介入して都市計画を歪めました。
この一方で,6代原子力委員会委員長・中曽根康弘は,原発立地地域の整備と原発周辺での開発を規制する原子力都市計画法の制定を考えていました。1959年のことです。しかし,上述のように,先に原産が東海村全域で開発をすすめていました。原子力開発の圧力はあまりに大きく,法案は国会に上程さえできないまま立ち消えてしまいました。
それから6年たった1965年,茨城県は,原子力委員会の提案を受けて,茨城県原子力施設地帯整備基本計画を策定し開発規制をつくりました。東海原発の周辺14箇所に公園と緑地を設け,これをいわば防波堤にして原発周辺に開発が近づかないようにするというものでした。
しかし,茨城県と東海村はそもそも開発推進の考えでしたから,開発規制をきちんと守ることはありませんでした。公園と緑地はその後,緑ヶ丘団地(1974年),平原工業団地,J-PARC(2001年)などへ次々と開発されていき,今では阿漕ヶ浦公園(写真),白方公園,久慈川河口の砂防林が残されているだけです。
写真 施設中心の公園に変貌した阿漕ヶ浦公園
昭和40年代,隣の日立市では社宅団地を出て家を持ちたいとする人が増え,公害がなく地価が安い村の田園に土地を求めました。日立製作所の勤労者世帯だけでなく,村内,さらには周辺からも村内で持家建設をする人が増え,原発周辺はこうして次第に密集市街地になっていきました。
村の住宅地が,原子力施設に囲まれつつ,原発を取り囲んでもいるという今日の光景は,原産によって都市計画が歪められた上に,茨城県と東海村が,都市計画規制を無視して原発周辺の開発を推し進めてできた光景なのです。
この光景が示しているのは,人口密度の高い住宅地が厚く東海第二原発を取り囲んでいるという,住民の安全にかかわる重大問題です。写真の阿漕ヶ浦公園は,村の開発政策の誤りをよく表しています。この公園は,上述したように,もともとグリーンベルト(開発阻止の目的)の役割を担って設置された公園です。ですから,その役割の通り,緑地保全すべきであって,このように緑をなくして施設型公園にしてはいけなかったのです。
* 原子力施設でサンドイッチ状態の住宅地(東海村の原子力開発の歴史1),2021年12月1日
東海村の原子力開発に取り入れられた植民地支配(東海村の原子力開発の歴史3),2022年 5月21日
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