東海村の原子力開発に取り入れられた植民地支配(東海村の原子力開発の歴史3)


脱原発とうかい塾会報「浜ぼうふう」81号(2022年夏号)。



前回,東海第二原発が市街地に囲まれることになったのは,茨城県が,原発の周りに公園と緑地を配置して開発が近づかないようにしたにもかかわらず,公園と緑地そのものを次々と開発許可してしまったからだという話をしました。

今回と次回は,東海村の原子力開発計画をつくった日本原子力産業会議(以下,原産)に焦点を当てます。まずは,原産が書いた「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」から開発計画の考え方と手法を読み解きます。

 趣意書は,次の文章で始まります。「風光明媚な自然環境と大部分の住民が純農家であるこの地はいわば汚れを知らぬ白紙のままの処女地であり,近代科学の粋を集めた原子力センターの所在地にふさわしい。学問と文化の理想的模範都市を設営するには蓋し絶好の立地条件にある」。原産は,原子力が,汚れを知らぬ無垢な東海村に文明と文化をもたらすという,差別意識に満ちたユートピア思想を謳いあげました。

そして,「官民一致して,予め周到な都市計画を用意し,強力にその具体化を図る」。原産が,行政に介入して官民一致で東海村の都市計画をつくり実行する,つまり,行政への権力的介入を宣言しました。

そして,こう括りました。「政府・原子力研究所,その他中央地方の関係機関と密接な連絡を持ちつつ,世界に恥ずかしからぬ理想的な原子力都市建設に必要な諸般の事業を組織的に遂行したい」。官と連携したユートピアの開発です。要するに,国策の名のもと,東海村で差別的で権力的な植民地開発をすると述べたのです。

東海村は当時,住民の7割以上が農家でした。そこへやってきた原子力関係の新住民にはアパート,マーケットなどが提供されました(写真)。これらは当時の村にはなかった,まさに近代的な施設です。優越的地位を与えられた新住民と「処女地の」地元住民との分断策でした。これは,植民地でよく採られた政策です。


原研長堀住宅

(低層2階建てのこのアパートは奥行き浅く,間口が広い計画。住棟間隔も広くとられてゆったりしている。廃止済。2007年撮影)


なぜ,原産は,帝国主義の植民地政策を取り入れたのでしょう。私は,それは原産の体質にあると考えています。

原産の設立提唱者・正力松太郎は戦前戦中,内務省警察官僚,大政翼賛会総務を務め,初代会長・菅礼之助は韓国政府が作成した強制動員リストにある帝国鉱業開発社長でした。原産加盟企業も多数上記リストにありました。要するに,原産は,敗戦まで日本帝国の植民地支配に直接関与した人物と企業に主導,構成された組織でした。

「原子力の平和利用」と言いつつ,日本初の原子力導入に強権手法が採られたのは必然的なことではなかったでしょうか。

こうして原産が作成した村の開発計画は,その通りに実施されました。原産の開発計画が,村のその後のあり方を決定づけたことは確かでした。




原子力施設でサンドイッチ状態の住宅地 (東海村の原子力開発の歴史1),須和間の夕日,2021年12月1日

東海村の住宅地はどのようにしてサンドイッチ型密集地になったのか(東海村の原子力開発の歴史2),須和間の夕日,2022年2月12日

「原子力開発黎明期の原子力政策と都市計画 ー東海村における原子力センター建設過程分析」,『日本建築学会計画系論文集』 86巻789号, 2021年11月。文中の「東海原子力都市開発株式会社設立趣意書」については,こちらの論文に詳しく書いています。

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