東海村自分ごと化会議の「自分ごと化」とは何だったのか
東海村の「自分ごと化会議」は,2020年12月,「東海第二発電所問題に関する『住民の意向把握』に向けた調査・研究の一環として,(住民が)“原発問題”をテーマに話し合う」場として開催された。東海村が主催した。あしかけ15ヶ月をかけ3月23日,住民参加者がまとめた提案書が山田村長に手交された *。
筆者はこれまでも東海村の自分ごと化会議については,色々な面から論じ批判してきた **。本論では,そもそも東海村の住民会議における「自分ごと化」とは何だったのかを考える。率直に言えば,自分ごと化というにはあまりにお粗末だった。
その第一は,この日の提案書の手交式。住民参加者代表が山田村長に提案書を手交した。メディアにそのような写真を撮らせた ***。新聞に掲載された写真は,住民参加者らがまとめた提案書を村長に手渡している,という図になっている。しかし,住民参加者は提案書を書いていない。書いたのはこの会議をコーディネートした構想日本の伊藤 伸氏である。村長の前で提案書を説明したのも伊藤氏である。他人に卒業論文を書いてもらい,他人に卒論発表してもらったようなものだ。恥ずかしい。
第二に,会議の運び方。会議は,伊藤氏が話の筋をつけ,筋に即して任意に住民参加者を当てて意見を述べてもらうという方式ですすめられた。住民参加者同士が直接に論じ合うことは避けられ,伊藤氏が間に入る。コーディネーターとして当然の役割だが,氏の話は,先の住民の意見の解説にとどまらず,自分の論を展開させるので,参加住民の発言よりたいてい長い。氏の論理にしたがった議論の展開だ。そもそもだが,東海第二原発の再稼働問題を論じないというのがこの会議のルールである。氏は,この本質的問題に触れないように議論を誘導した。
山田村長はこの会議を「自由な議論の場」と言った。だが,本当に,自由に発言できる場だったのだろうか。だいたい,これが大人の議論なのだろうか。
小学生の学級会なら,教師は学級会を自在に動かすようなことはせず見守っている。児童は自由に発言し,自分と異なる意見も聞く,教師が出ていくとすれば,みんなの意見をまとめるようにもっていく時ぐらいではないか。教師の役目は,児童の主体性を尊重して,児童に会議の運営の仕方や意見をまとめる方法を学ばせることである。東海村の自分ごと化会議は,自主性,自立性のないお手盛り会議だったということに気づく。
高校や大学で,もし生徒・学生のレポート,卒業論文が完全代筆だったことが発覚したら,単位は与えられない。それが卒業論文なら卒業は取り消される。生徒・学生の学びのプロセスと学びそのものが保障されていないからである。学生にはやり直してもらうしかない。
なぜ,自分ごと化会議の住民参加者は,お手盛りの会議で自由な発言ができず,最後のまとめの提案書さえも自分たちで書き,自分たちで発表できなかったのだろうか。筆者は,これには,山田村長の思惑があると見ている。山田村長は,提案書を受け取った後,こんな発言をした。
「伊藤さんのようなコーディネーターがいないと,このように住民の意見をまとめられないから,どうするか課題だが,今後もこのような自由な議論の場は設けたい」(傍聴者は音声記録を禁止されている。記憶を頼りに書いた)
今後もこのような自由な議論の場を設けたいが,その場には住民の意見をまとめるコーディネーターが必要というわけだ。内容に制約をもうけない自由な議論は前提とされていないのである。
要するに,村の自分ごと化会議は,その内容においても,会議の運営においても,自由な議論の場ではなかった。東海村の住民会議でなぜこのような方法がとられたのか,もう判然としているだろう。
しかし,そもそもなのだが,村は会議のテーマとして「原発問題」を提示した。ならば,「原発問題」とは一体何なのか,自分たちの村にある原発は何が問題なのか,いまこの時点で,なぜ自分ごと化会議なるものが立ち上げられ,原発問題を取り上げることになったのか。これらの問いは,会議の議論開始にあたってもっとも大切な課題だと思うが,それは論じられていない。
そして,次がさらに重要だと思うのだが,村や原電とは別に,住民である自分たちがこの問題を議論する意味,目的は何なのか,この議論である。もちろん,この議論もなされていない。1月のブログで書いておいたが,提案書は,村や原電と同じことを言っているだけで,住民としての独自性は見当たらない。独自性がないのは,住民同士の議論がされていないからだ。
村に住み,村の核施設に向き合い,迫る東海第二原発の再稼働問題にどう向き合うのか。この問いかけは,村の未来,村民の未来,そして周辺数千万人の暮らしにもかかわる問題である。提案書は完全に他人任せで,ただ色々な意見を羅列しただけだった。東海第二原発問題の自分ごと化とはほど遠かった。
今回の自分ごと化会議は,若い住民が多数参加した。社会調査でよく用いられるアンケート調査では通常,高齢者の回答が多く,若い世代の回答が少ない。確かに,若い住民の意見を引き出しやすい方法だということがわかった。
問題は,住民の代表性が担保されているかである。村は,この会議は,住民意向把握の方法の一つだと言っているから,この問題はきちんとしておかなければならない。
自分ごと化会議は1,000人に対して参加表明したのは26人,参加率はわずか2.6%である。実際の会議参加者はもっと少なかったから,実質的には1%台だろう。他方,アンケート調査の回収率は通常3割程度はある。自分ごと化会議におけるこの極端な参加率の低さで,住民意向把握は不可能である。
ところが,山田村長は,住民意向把握の手法として「アンケートや住民投票は違う」と,社会調査法として一般的なアンケート調査を否定し,「無作為で選んだ人に自由に話をしてもらう場はつくりたい」と述べた(東京新聞,3月24日)。
これは問題である。住民意向の把握法としてアンケート調査や住民投票を否定するなら,その根拠を示さなければならない。
そもそも,この会議は,東海第二原発の再稼働の是非は議論しない会議である。山田村長は,このような会議で住民意向を把握するという。村長は,自分で矛盾した発言をしていることが理解できないのだろうか。
再度,おさらいしよう。
自分ごと化会議の目的は地域課題の「自分ごと化」である。なのに,村はこの会議を「住民意向把握の調査研究」とした。住民意向把握調査の会議なのに,村は会議の成果として住民から「提案書」を出させた。出された「提案書」には,再稼働の是非に関する住民意向についていっさい記載がない。
山田村長は,目的と成果に一貫性がない会議を今後もやって,住民意向を把握するというのである。この支離滅裂ぶりをいったいどう理解すればいいのだろうか。
自分ごと化会議は,住民代表性の問題,一貫性のなさのほかに,無作為抽出方式は労力と経費負担が大きい。今回の会議は予算額で合計500万円弱だった。村は,このような会議を何回やるつもりなのだろうか。他方,アンケート調査や住民投票も経費,労力とも大きいが,1回実施すれば結果を出せる。あらためて,この問題については書こうと思う(書かないかもしれない)。
それにしても,もし今後もこのような住民会議が開催されるのなら,参加者は他人まかせではなく,自立性,自主性のある議論をしていただきたい。
* 東海村「『東海村“自分ごと化”会議』提案書の提出及び「“自分ごと化”会議セミナー」を開催しました。」,2022年3月24日
**「東海村『自分ごと化会議』はどんな会議だったか」,須和間の夕日,2021年12月23日
「東海村自分ごと化会議の『提案書』 住民は新しい提案を出せるか」,須和間の夕日,2022年1月29日,など
*** 東京新聞 「東海村 /『住民議論の場、今後もつくる』/『自分ごと化会議』が村長に提案書」,2022年3月24日
朝日新聞「原発自分ごと化会議の提案書提出 参加者『一つでも実現を』 東海村」,2022年3月26日
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