水戸射爆場サイトに描かれた「勝田原発」の計画図
筆者は,東海村の原子力開発史について,以下のこと明らかにしてきた *。
①東海村に原研設置が決まった翌年の1957年5月,日本原子力産業会議(原産)は,早々と村の将来図を発表した。
②その将来図には,当時,事業主体さえ存在しなかった原子力発電所をはじめとする原子力施設の配置が想定され描かれていた。
③そして,村の構成(各種原子力施設や社宅団地の配置,その他)はまったくその通りになった。
原産が1957年5月に発表した東海村の将来図とは,「東海村の立体的図板」である **。この立体的図板が示すことは,東海村の将来計画を描いたのが,その主体であるべき茨城県でも東海村でもなく,原産という,原子力開発推進を目的とする原子力の産業界組織が描いたという点にある。要するに,東海村の原子力開発は,村の都市計画も含めて,原産がつくり実現させたという点である。
では,東海村の立体的図板とは一体どのようなものであったか。実は,その内容そのものを示す資料が見つからないので詳細は不明である。
立体的図板の関連資料を探していたら,原産による原子力開発の将来図面がなんともう一つあったということを知った。東海村の南に隣接する勝田市(現・ひたちなか市)に描かれた図で,森一久編纂の『原子力は,いま 上 日本の平和利用30年』に記載されていた ***。以下に引用する。
ちょうどそのころ,茨城県の知事選挙があって,岩上二郎氏が当選した。岩上氏は,水戸射爆場の返還を選挙スローガンにかかげていたので,当選すると,その推進が問題になった。ある時,岩上知事に後藤氏(武男,茨城新聞社長),渡辺氏(覚造,原産相談役,茨城県商工経済会)と原産の橋本氏(清之助,原産事務局長)が入って,日本の原子力利用を開発するには,水戸射爆場の地域が是非必要である,そのため同地域の原子力開発計画の構想を米国政府に直訴して返還の陳情をすべきだ,という話合いが行われた。
岩上知事,三村勇県議会議長,後藤,渡辺らの一行の訪米が実現したのは,二年後の昭和三十六年のことである。一行は,アメリカの副大統領,国務長官,国防長官に面会して,射爆場の返還を申入れるとともに,射爆場(約四百万坪)に百万キロワットの原子力発電所をはじめ,各種の原子力施設をおく原産作製の計画図面を手渡した。原研につづいて,原子力発電所などを積極誘致し,茨城県を原子力のセンターにしていこうという同県の方向は,このようにして生まれたのである。そしてあとで再処理施設の受入れの頃に,やっと水戸射爆場の返還が実現する素地となったのである。
1959年,友末洋治氏を破って,岩上二郎氏が県知事になった。岩上氏は,東海村に隣接する勝田市の水戸射爆場の返還を訴えており,この実現が岩上知事の重要な政策になった。2年後の1961年,県議会議長と原産関係者とともに,原産作成の図面を携えて,アメリカに水戸射爆場の返還を訴えに行ったというのである。
このくだりで注目される事実と,そこから浮上してくる疑問が次の2点である。
①1961年,原産が,水戸射爆場サイトに,100万キロワットの原発をはじめとする原子力施設が集中立地する計画図を描いたが,計画は実現しなかったという事実。この計画が実現しなかったのはなぜか。
②誰が,100万キロワットという,当時ではまだどこにも計画のなかった原発を設置しようとしたのか。
水戸射爆場サイト(1,148ha)に描いたという「原子力センター」計画図がどんな内容かは,図面の掲載もなく具体的な記述もないのでわからない。跡地は現在,国営ひたち海浜公園(約200ha)ほか,購買施設地区,工場地区などに再開発されたが,原発はもとより原子力施設はまったくない。つまり,原産作成の計画は何一つ実現しなかった。計画が実現しなったのはなぜか。
もう一つの疑問,100万キロワットの原発事業者は誰かについて。東海村で建設中だった日本原子力発電(原電)の東海原発はわずか16万キロワットだったことを考えると,この原発計画は商業原発の本格的な出発を意欲するものだった。100万キロワット原発の事業主体は,おそらく東京電力(東電)である ****。1961年,関西電力は福井県敦賀市と美浜町で調査地点を選定し調査をすすめていた。東電も選定を始めていただろう。
茨城県は,1956年,東海村に原研設置を誘致して受け入れ,翌1957年には,原産が描いた東海村の将来図を受け入れて実現に協力した,原子力開発にとても積極的な県である。
原産は,水戸射爆場返還を訴えて,1959年に県知事になった岩上氏のもとへ,水戸射爆場跡地に東電の原発を設置し,辺り一帯を「原子力センター」にするという構想を提案したのだろう。岩上知事はこの構想を受け入れた。そこで,原産は,水戸射爆場サイトに東電の原発ほか原子力施設が集中立地する「原子力センター」の計画図を描いて,知事に見せ,了承された。
この部分は筆者の推測だが,大筋は合っているだろう。こうして,岩上知事と原産関係者は,計画図を手にして,アメリカへ水戸射爆場返還を直訴しに行った。
そもそも水戸射爆場の返還問題は日本とアメリカの問題である。それにもかかわらず,国を飛び越えて,地方自治体の長が民間人とともに米副大統領に直訴しにいくという行為は理解しにくい。当然のことだが,水戸射爆場の返還は簡単なことではなかった。東電は,返還には時間がかかることを理解し,水戸射爆場跡地を諦め,管轄外の福島県双葉町と大熊町に立地点を求めたのだろう。
水戸射爆場が返還されたのは,アメリカへの直訴から10年以上も後の1973年だった。この時には,同地での原子力センター計画はすでに意味のない計画となっていた。跡地には国営ひたち海浜公園などが整備された。公園の開園面積は現在約200ha,春にはネモフィラが咲き誇るみはらしの丘は,太平洋を見晴らせる見所の一つになっている(図)。
図 国営ひたち海浜公園 GUIDE MAP
話を戻そう。もし水戸射爆場の返還がスムーズに実現していたら,東電「勝田原発」ができていたかもしれない。今日の東海村が原産の計画でつくられたように,ひたちなか市の臨海部も原産の計画による「原子力センター」がつくられただろう。そうなれば,東海村とひたちなか市の臨海部一帯は,イギリスのセラフィールド600haを上回る,世界でもまれに見る広大な「原子力センター」になっていたかもしれない。
そして半世紀後の3.11,地震と津波に襲われた「勝田原発」に何が起こっただろうか。日本はどうなっていたのだろう。
* 「『原子力センター』建設を担った東海原子力都市開発」星空講義,2019年6月7日
「日本原子力産業会議が描いた東海村の『原子力センター』」,星空講義,2019年6月28日
「東海モデルを形づくった日本原子力産業会議」,星空講義,2019年8月2日
「東海村の原子力開発史で見つけた3事実」,星空講義,2019年8月5日
** 原子力産業新聞,1957年3月 25日
*** 森一久編『原子力は,いま 上 日本の平和利用30年』p.103,丸の内出版,1986年。本文中のカッコ内は筆者による加筆
**** wikipedia「福島第一原子力発電所」は,東電は水戸射爆場跡地を原発立地点の候補に挙げていたことを記述している。しかし,根拠は記載されていない。2019年12月11月閲覧。筆者も,原電が東海原発の次につくった敦賀原発は35万キロワットと小さく,この時期に100万キロワットという規模の原発を計画できたのは東電だと考えている。
(原電茨城事務所前抗議行動,「星空講義」24,2019年12月20日)
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