原発都市研究の今までとこれから

2019年12月,復興デザイン会議(事務局=東京大学復興デザイン研究体)から最優秀論文賞をいただき,半年後の6月,その対象研究である原発都市研究について基調講演の機会をいただきました。

原発都市研究の「今まで」と「これから」をお話しし,最後に,原発のない地域を目指して未来をどう描くかという議論が必要だということを訴えました。


原発都市研究の着想

茨城県東海村は,鉄道駅を中心に置く小さな市街地と,市街地を取り囲む広い田園地域,臨海部の南北に連なる帯状の広大な防砂林で構成される。この防砂林の中に,東海第二原発,東海原発(廃止),東海再処理施設(廃止)をはじめとする原子力施設が集中立地している。

1956年,村の原子力開発が始まって以来60年余りたち,人口は3倍,3.7万人に達した。開発の初期,来住したのは原子力と日立製作所(日立)関係の人々だった。

村の人口構成は,地元1/3,原子力1/3,日立1/3とよく言われる。この区分は東海村の特徴をわかりやすく示しているが,実際はこれほど単純ではない。地元の人の中には原子力関係に勤務する人は多いし,日立は,原発メーカーでもあるから原子力にカウントできる。要するに,東海村は,原子力施設の圧倒的な多さの点でも,住民の原子力産業へのかかわりの多さという点でも,大きな原子力の村なのである。

東海村は,この地でできるだけ早く日本初の商業原発を建設するという国の原子力政策に沿って,事業所誘致をすすめるとともに,増大する住宅需要に応じて開発を広げてきた。その結果,原子力と村民の生活環境が混在するという,日本でも例を見ない状況をつくりだした。

図1は,東海第二原発から960m西に住む川崎あつ子さんが,自宅の2階から撮影された動画である。画面中央に防砂林が横に連なり,防砂林手前の白方区の居住地と向こう側の原発サイトに分かれる。画面の白方区は市街化調整区域だが,駐車場が広がり左端にはミニ開発の住宅地が見える。ここから少し歩けば,ファミリーレストランやジム,郵便局もある。原発の隣接地でありながら,多くの人々の居住があり,消費を呼びこむ施設も用意されている普通の市街地になっている。防砂林を挟んだ向こう側には,東海第二原発と東海原発が見える。


図1 東海第二原発と周辺(撮影=川崎あつ子氏,2020年5月15日)


初めて東海村を訪問した時,私は,この開発のあり様にびっくりし,強い疑問を抱いた。これが私の原発都市研究の芽生えだった。2003年ごろのことである。しかし,国策と固く結びついた東海村の開発のあり方を批判的に研究する勇気はなく,10年近くくすぶっていた。と言っても何もしていなかったのではなく,農村住宅の変化や,村民のオーラルヒストリーなど,いわば本丸研究の外堀を埋める調査をしていた。もどかしかったが,それらの研究は,かえって東海村の原子力開発過程への理解を深めることに役立った。

原発都市研究に着手したのは,福島第一原発事故が起こった後である。原発の過酷事故がもたらしたカタストロフィーは,自然災害の破壊力をはるかに超えるものだった。多くの人々が居住地を即座に離れなければならなかった。筆者が住む茨城県にも多くの人々が避難してきた。茨城県民の中にも,もっと遠くへと避難を選択した人がいた。北海道に避難し定住した人,海外へ避難した人もいた。

生きている間にはもう戻れない町が現れ,地域の生活,文化,環境が失われようとしている。私は,「原子力と地域社会」のテーマで集まった茨城大学の研究者たちのグループに加わり,科研費を確保できた2013年,原発都市研究に着手した。


原発都市研究の成果

この研究で明らかにできたことは,一言で言えば,東海村の開発を主導したのは,国でもなく茨城県でもない。民間の原子力推進体,原子力産業会議(現・原子力産業協会,原産)だったということである。

原産がつくった村の開発計画が,現在の東海村の構成をつくった。開発の特徴は,「周辺開発規制なしの原発立地」で表現できる。これは,原発立地を促進させる上で都合がよく,全国に広がっていった。私は,これを「東海モデル」と名付けた。

東海村の開発の歪みを明らかにした後,私は,原発ゼロ後の持続可能な地域に関するヒントを得るために,旧東ドイツ地域のルブミン村へ調査しに行った。

ルブミン村は,旧東ドイツの最大の原発の村である。1990年のドイツ統一で5基の即時廃炉,3基の建設中止が決定され,これによって村は存続の危機に直面した。そこで,村と原発事業者が共同して生み出したアイデアは,原発サイトに工業団地をつくって収益事業を起こすことだった。この事業は,原発に変わる新エネルギー育成団地として成功し,村は豊かな財政力を確保し,観光業の回復,人口増加など目覚しい成果を得ることができた。


日本の原発政策と科学研究

国と原子力ムラが「東海モデル」を全国に広めることができた背景には,国策に位置づけられた原発推進策がある。

この原発推進策の元をたどれば,1953年,米・アイゼンハワー大統領が,国連の演説で提唱した「原子力の平和利用(atoms for peace)」がある。核には,核兵器(=悪)に対する,もう一つの核の側面,「平和利用」(=善)があり,その善を広めようというものだった。

ソ連の共産主義圏から,非核兵器保有国を自由主義陣営に取り込もうとするアメリカのもう一つの核戦略だった。この戦略に乗った日本の原子力政策は,予算を急増させながら原発推進に邁進した。

日本中で繰り広げられた「平和利用」プロパガンダは,科学者たちの間にも浸透して,賛成が広がった。しかし,国の原子力政策は当初から,きわめて歪んだもので,原発建設を急いだため,安全確保は,以後の技術進歩によって実現されるという考えを取ったのである。要するに,原発政策は,安全科学を疎かにすることで始まり,以後,安全科学の排除そのものが体質化していった。その最初の象徴的な出来事が以下である。

1956年,原子力委員会委員に就任した湯川秀樹博士は,実用原発の建設を急ぐ委員長・正力松太郎に対して,実用化の前に基礎研究が必要と主張したが,議論はなされなかった。1年後,博士は体調不良を理由に委員を辞した。

その2年後の1959年,日本初の商業原発となる,東海原発に対する原子力委員会原子炉安全審査部会の委員になった坂田昌一博士も,原発事故時の許容線量を決めないまま設置を許可すること,予定地に米軍水戸射爆場が近接していることなどの問題を指摘して,このまま設置が許可されるなら,自身は一切の責任を持たないと書簡にし,東海原発の安全審査のあり方を厳しく批判した。しかし,博士の意見が斟酌されることはなく,その翌月,東海原発の設置は許可された。

安全を追究する科学は後ろへ押しやられ,拙速な原発建設が追求された。その空間的結果が東海村であり,その成果が全国の立地地域に適用された「東海モデル」である。


原発都市研究のこれから

原発都市研究の困難さは,重要な情報は事業者や国に独占されていることで,研究者にとって重要な一次資料の入手はほぼ不可能である。研究のアイデアが湧き道筋も立てたのに,肝心の資料にアクセスできず諦めた研究もある。また,事業者や国の安全研究の排除という体質化した根本問題に,どう対抗する研究をするかという問題もある。

しかし,想像もしなかったカタストロフィーを起こし,廃炉しても将来にわたって長く,人間の生活環境へのカタストロフィーを想像しなければならない原発という事業の歴史と特性を理解し,生活環境と地域を守るための研究はさらに深められなければならない。

それには,市民との共同が欠かせない。この1年,私は大学の外に出て市民との交流の中から学んだことである。そこで,最後に,原発についての自由な議論が重要であることを訴えて締めくくりたい。

2001年,水戸に来て間もないころ,日本建築学会茨城支所の役員会議に初めて出席したとき,茨城県の建築行政を定年退職した人が,東海村が原発の設置場所に選ばれたのは地震が少ない土地だからだと,筆者に自慢げに説明してくれた。まだ茨城県民になりきっていない筆者にとって,茨城県民性について考えるヒントとなる言葉だった。

東海村が日本で最初の原子力開発の地に選ばれたことを茨城県の誇りに思う心性は,茨城県の学校教育課程で涵養されている(下の「茨城県民の歌」)*。だから,同じ村内で起こった,あの凄惨なJCO臨界事故(1999年)を経験した後でも,この心性は,そうやすやすとは消えない。この心性は,原発は地域経済と雇用に貢献するという信念とも固く結びついている。この心性と信念が,茨城県で原発について自由な議論を阻む大きなネックになっている。

しかし,地域経済への原発の貢献は限定的である,ということは明白な事実である。廃炉時代を迎えている,ということも明白である。それでもなお,原発とともにある地域の未来を描きたいとすることは,地域を大きな不幸に導く危険な選択である。

イギリスの科学史・科学哲学ジェローム・ラベッツは,ポスト・ノーマルサイエンスを提唱する。近代科学は,科学的実証という手法で,正しさ,正当性を主張するが,専門家の知識や判断でも不十分な政策課題には,人々や価値の不在を前提にした近代科学の客観性はもはや不適切である。ポスト・ノーマルサイエンスでは,専門家と専門家でない人との対話が必要であり,対話では「誠実な交渉」に携わる参加者が必要である,と主張する。

残念なことだが,原発の問題で,対話や誠実な交渉は,きわめて困難な事業である。議論のなさ,少なさは,原子力専門外の研究者社会でもまったく同じである。

私が所属する建築学会や都市計画学会,住宅関係の学会でこれまで,雑誌の特集や大会でのディスカッションなどで原発に関する議論はされたことがない。地震学や農業関係など,原発事故に強い関心を持たないではいられないと思われるような学会でも同じ状況にあるという。

原発に関する議論や研究の積み重ねの絶対的少なさは,安全研究の成果が生かされにくいだけでなく,原発の悪影響を意図して小さく見せる似非科学が大手を振るうことにつながる。対話が必要だと提唱するポスト・ノーマルサイエンスは,安全科学の軽視や似非科学を承認しない。

私は,原発都市研究を着手するのに勇気がなく,10年近くうずうずしながら過ごしてしまったが,いざ着手したら臆することはなにもなかった。研究者,市民の多様なコミュニティで,原発に関する自由な議論が起こされて展開し,次の時代を志向する流れがつくられることを願っている。



* 1963年に制定された「茨城県民の歌」の3番は,東海村の原子力開発と鹿島開発が,茨城の明日の文化を築く,と歌っている。茨城県で教育を受けた子どもの心に染み付いている歌である。川澄敬子氏(茨城町)は「学生時代はいろいろな機会に歌いましたので、歌詞は覚えています」(2019年10月12日,ツイート)。
ちなみにだが,高校までの学校教育を奈良県で受けた筆者は,「奈良県民の歌」をまったく知らない。奈良県は,海がなく,茨城県のように郷土の誇りとして県民の心に刻み込ませたい先駆的な開発や大規模な開発はなにもない。もしそのような開発があれば歌詞になっていただろうが。

「茨城県民の歌」歌詞(川上宏昭作)
1 空には筑波白い雲 / 野にはみどりをうつす水 / この美しい大地にうまれ / 明るく生きるよろこびが / あすの希望をまねくのだ / いばらきいばらき / われらの茨城
2 ゆたかなみのり海の幸 / 梅のほまれにかおるくに / このかぎりない恵みをうけて / おおしく励むいとなみが / あすの郷土をつくるのだ / いばらきいばらき/ われらの茨城
3 世紀をひらく原子の火 / 寄せる新潮鹿島灘 / このあたらしい光をかかげ / みんなで進む足なみが / あすの文化をきずくのだ / いばらきいばらき / われらの茨城


参考文献

・乾  康代『原発都市 歪められた都市開発の未来』幻冬舎ルネッサンス新書,2018年
・田中利幸,ピーター・カズニック『原発とヒロシマ   "原子力平和利用"  の真相』,岩波ブックレット,2011年
・樫本喜一編, 坂田昌一『原子力をめぐる科学者の社会的責任』岩波書店,2011年
・ジェローム・ラベッツ著,御代川貴久夫訳『ラベッツ博士の科学論 科学神話の終焉とポスト・ノーマル・サイエンス』こぶし書房 ,2010年
・畑村洋太郎『失敗学のすすめ』講談社文庫,2005年




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